緋山酔恭の「価値論」 屁理屈の哲学 ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 屁理屈 編 】




ウィトゲンシュタインの
「語りえぬもの」




一般人の哲学に対するイメージというのは

「何を言っているかよくわからず、役に立たない」

「難解な言葉で、意味ありげなことを言っているだけ」ですよね


なぜそうなのでしょうか?


極端に言うと

哲学には、絶対主義と、それと対極をなす懐疑主義しかないからです

言い換えると「観念(主観)の塊」と「屁理屈」しかないということです




ホントは、哲学的問題は、全て解決できるはずです


なぜなら、人間の世界とは、言葉の世界であり

≪人間の認識において≫、人間がとりあえず決めたこと

≪仮定≫のことを言葉によって区別したにすぎないからです




ではなぜ、「観念の塊」か「屁理屈」かになってしまうのでしょうか?


それは、言葉にだまされてしまうからです

言葉を≪吟味≫しないで使用するからです





但し、私が「言葉を吟味せよ」というのは

ラッセルやウィトゲンシュタインを源流とする「分析哲学」とは違います




20世紀最大の哲学者と称される

ウィトゲンシュタイン(1889~1951・言語哲学者)の

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

〔語られたものだけが、現実になり、真実にもなる〕


という言葉によって

形而上学(けいしじょうがく)は終焉を告げた

なんてことになっています




哲学の本質、目的、方法といったものを哲学する

「哲学の哲学」と呼ばれているものもあります


≪メタ哲学≫です


(メタとは「超」とか「高次」といった意味を持つ英語の接頭語)



ウィキペディアの「メタ哲学」には


≪ 哲学におけるあなたの目的は何か

ハエにハエとり壺からの出口を示してやること ≫


ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン, 『哲学探究』, 309


また


≪ 哲学の正しい方法とはこうであろう

言えること=

つまり自然科学の問題=

つまり、哲学によってなすべきこと


が含まれていないようなこと以外は

言わないことである


そして、誰かが形而上学的なことを

言おうとしたときには


彼は、自分の(彼の)問題の中の確かな標識に

何の意味も与えられないことを説明してあげること


しかし、この方法は他人を(彼を)満足させられないだろう


彼は我々に哲学について教えてもらった

という感じがしないだろう

しかしこれが唯一の厳密に正しい方法であろう ≫


ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン, 論理哲学論考, 6.53


とあります




ウィトゲンシュタインに言わせると

以下のような話になるはずです


【 ペンが消えた → どこへ行ったのだろうか? → 机の下に落ちた


これに対し

火が消えた → 火はどこへ行ったのだろうか? →


こうした問題には「答えはない」

というより、問題自体「意味がない」のである


なぜなら、火はどこかに行くものではなく

消滅するものであるからであり


言葉のルールにおいて間違えているからである



同様に、死=命が終わった → 命はどこへ行ったのだろうか? →

思考自体間違えで、意味がない →


「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 】





しかし、私たちは

推論によって、言葉の意味を判断しているのです


例えば、「コーヒー入れます?」 →

相手が「コーヒー飲むと眠れなくなるからね」と答えると

私は「いらないんだ」と推論します




同様に「火はどこへ行ったのだろうか?」

という友人の問いに対し


私たちは、彼が「火は消えたあと、別世界に行くのだろうか?」

という哲学的な話をしていると推論するのです



つまり、言葉のルールに反してもいないし

彼の論題自体には、間違えなんてありませんよ(笑)





例えば「食事」とか「日没」とか「雨」のようコトは

その原因となる人間、太陽、水を、実体ととらえると

現象として、我々の世界にあると言えます



しかし、雨の場合

「雲は、水の集まりだけど

水が実体で、雲は現象というのではなく

雲自体、実体と言えるのだから

同じ水の集まりの雨だって実体である」とも言えます



また「雨という言葉の概念には、動き(変化)を含むので

やはり現象である」とも言えます



「水が雨の実体である」ととらえると

雨は、実体でなく、≪現象≫として存在すると言えるのです



つまり、実体か、現象かは、便宜的にしか分けられないのです




さらに、「愛」とか「善」とかいった抽象的な存在は

実体としてあるとも、現象としてあるとも、概念としてだけある

とも言えます





「近代言語学の父」と称されるスイス人言語学者

フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)は

シニフィアン(記号表現)・シニフィエ(記号内容)

という概念を提示したことで知られます


言葉(記号)が、シニフィアンと、シニフィエ

という2つの要素で成り立つということです



シニフィアンは「海」という文字や、「umi」という音声のこと


シニフィエは、シニフィアンによって意味されたりあらわされる

海のイメージや、海という概念、意味内容のことです




すなわち「言葉」というのは

シニフィアン(音や文字としての言葉)と

シニフィエ(概念)とを、必ず有する


シニフィアンと、シニフィエによって成立している

という話なのです



確かに、我々は「神」とか「死後」とか「霊魂」とか

いう言葉や存在にさえ、≪概念≫や≪観念≫をもちます




しかし「多次元世界」なんてものはどうですか?


思考も、想像も、表現もできないですよね


≪我々の存在する世界を超えた世界≫

といったくらいの薄い薄い意味内容しかもち得ないのです



そうなると「言葉」(シニフィアン)だけあって

「概念」(シニフィエ)がない存在も

我々の世界に「ある」ということさえ言えるのです





それから「死後の世界」とは

≪死んだあとにいく世界≫という意味であって

その内容こそ、宗教や社会によって違っているとしても

言葉自体の概念は、明快です


これに対し「幸福」とか「時間」といった言葉の方が概念が明確でなく


その意味においては、どちらが形而上学なのか?

ということにもなるのです




人間の世界とは、言葉の世界であり

≪人間の認識において≫、人間がとりあえず決めたこと

≪仮定≫のことを言葉によって区別したにすぎないということです


また、そもそも、人間の言葉による区別は完全ではなく

物差しで測るように、全てのものごとをキレイに分けらないのです





こういうことを知らずに「屁理屈の哲学屋さん」というのは


「因果」は、確率性にすぎない (ヒューム)


「物理学の真理」は、経験できない (マッハ)


「時間」は、幻想である (ラッセル)


「霊魂」や「死後」は

言葉のルールにおいて間違い (ウィトゲンシュタイン)


と、言っているのです



ウィトゲンシュタインなんかは

≪ 私の哲学の目的は

ハエにハエとり壺からの出口を示してやること ≫と


自分のことを言っています(笑)




彼らは、つまり、≪人間の認識において≫

あるいは、≪人間の思考において≫の

仮定の定義について、「間違え」と言っているのです



そりゃ、間違えと言えば、間違えと言えますよ

≪仮定≫の真理や概念なのですから(笑)




しかし、≪人間の認識において≫

あるいは、≪人間の思考において≫の

【真理】や【概念】を否定したら、それで話はおしまいです



なぜなら「存在」も「世界」も「時間」も

「幸福」も「価値」も「愛」も・・・・ 全ての哲学的論題は

≪人間の認識において≫ あるいは

≪人間の思考において≫ のものでしかないからです





私が言っていることは、そういったことではありません



我々は言葉にバーチャルな概念をこしらえ

その上に生活しているのだから


どこまでがそのモノ自体に対する概念やイメージで

どこからがその上に積上げた

バーチャル的な概念かを見極めることが必要である


と言っているです





そのモノ自体に対する概念とは

人間の認識能力において、他のモノやコトと区別した原型の概念です


この概念は、人間の認識能力がいつの時代

またどこの地域においても

さほど差がないので、人類的な普遍性を持ちます



ちなみに、現代人と同じ特徴を持った生物

(新人・現生人類=ホモ・サピエンス)が現れたのが

およそ20万年前とされ、脳の容量1400mlというのは

そのとき以来、変わっていないといいます




例えば、「神」という言葉でいうならおよそ

『こまったときに助けてくれて

平等に管理(信じる者は救われる)してくれる存在』くらいが

そのモノ自体に対する概念やイメージでしょう



教会を通してでなければ、神の救いは受けられない (カトリック)


万人が直接「神」とつながった祭司であり

神の救いを直接受けられる (プロテスタント三原則の「万人祭祀主義」)


なんてのは

「神」という言葉の上に、積み上げたバーチャル的な概念です


人間の都合=価値 として積み上げられたものです



こういうものを取り払ったところに

事物の≪本質≫や≪真理≫を見極めるカギ

哲学的問題を解決する糸口 がある ということなのです


むろん、事物の≪本質≫や≪真理≫といっても

「人間の認識において」という前提はつきます





哲学というのは

【自分で哲学する】ためにあるのであって


哲学界において

≪釈迦の先生≫ 〔八万法蔵と表現される

膨大な数の仏典を理解する人の意味

学問についての知識が豊富で、説明が上手とかで

重宝がられている学者先生〕になろう


なんていうことほど、無意味なことはないですよ



なぜなら「観念の塊」や「屁理屈」について

正しい解釈をしよう

一語一句、正しく理解しよう 

なんてところに意味ってありますか? ということです



大学の先生にでもなって

それで飯を食っていこうというなら

意味はあるのでしょうけど(笑)



こんなものは、ざっと勉強して

本質をつかんで、自分で考えなさい ということです





シモーヌ・ヴェイユの自己否定

において、このよう↓に書きました


【 無駄な英語ってすごく多いですよね


今では定着した感がありますが

「コンセンサス」なんて「合意」か「意見の一致」ですみますし・・・


もちろん、日本語にない言葉もあるので

カタカナ語が全て悪いとは思いませんが・・・



一般的な日本人は、日本語で物事を考えるので

日本語でない言葉は余程意識しないと

正しく認識できないようになっています


なので、それなりの地位にいて、カタカナ語が多いと

その人は、(本質をごまかしたい) 詐欺師・ペテン師

と認定せざるを得ない


でなければ、本当に≪残念な人≫ということになります 】





哲学書のなかでも

ウィトゲンシュタインや、ハイデガーのそれは

とりわけ難しく、途中で読むのをやめてしまう人がほとんどです



彼らが、なぜ難しく書くかというと

中身がないものを、中身があると装うためです



なぜ、そう言えるのか? ですって



人間である以上、誰であれ

五次元の世界など、思考も、想像も、表現もできないはずです


「多次元世界」「宇宙の果て」「宇宙の形」

こうした究極的な問題については


物理学者でも、数学者でも、そこらへんの一般人でも

解答に、さほどの違いはないです(笑)



人間の思考というものには、限界があるのです

またその「思考の限界」が、この程度のところにあるのです


だからそう言えるのです





「時間論」のトップページにこう書きました


【 GPSとカーナビがちゃんと機能している

この事実が、相対性理論の正しさを証明している これは詐欺です


逆に、相対性理論がデタラメなことを証明しているのです




陽天: 過去とは「過去の星の光が、現在に届いた」の

「過去」とはちゃうで

これは到着時間の差を考慮した場合に語られる過去や



光をひかり号に譬えると

過去に大阪駅を出発したひかり号が、今、東京駅に到着したからといって


過去の大阪駅と現在の東京駅で交信できるなんてことやない


だから、未来の展望台の人とはラインできん


展望台やなくても、現在の1階の人と

未来の2階の人とでもラインできん


つまり【時刻の違う物体は同じ空間には存在できん】のや


でも、2階の人とラインができるし

富士山の頂上にいる人とでもラインできる


これは【同じ時刻を共有している】からや





一般相対というのは、重力によって時空がゆがむ

時空がゆがんだ分、光の進路もゆがんだり、曲がられたりする


例えば、A地点→B地点の光の進路がゆがむと

光はその分、長い距離を進むことになり、その分、時間がかかる

= 時間の遅れ という理屈なのです



なぜ、光の到着時間が長くなると

我々の世界を成り立たせている「時間」が遅れるのでしょうか?



まず、 人類は、なぜ、太陽や月の動きから

年、月、日、時刻といった「時間」「時計」を

つくることができるのでしょうか?


太陽や月の運動に、規則性があるからですよね



光は、誰がどのような状態で観測しても一定である

光は、なにものにも左右されない

ということですから


アインシュタインに言わせると

時間を考えるのに、最もふさわしい存在ということなのです




一般相対というのは、前述したように

重力が大きいほど、時間が遅れるわけですから


宇宙空間に対して、地球の方が≪時間が遅れる≫とされています



2020年には、東大と理化学研究所のチームが

スカイツリーの地上階と展望階に

光格子時計(ひかりこうしどけい)という

めちゃくちゃ精度の高い原子時計置いて実験し


≪一般相対の「時間の遅れ」を検証できた≫と嘘八百を並べています



アインシュタインの≪時間の遅れ≫とは

【時刻を刻む速度が遅れる】ということです


そうなると

地上階よりも、展望階の方が「未来」にあることになりますよ!!



あなたは、未来の人と交信できますか?


GPSとカーナビがちゃんと機能しているということは

GPS衛星は未来に存在していない = 時間の遅れはない

ということなのです



こんなことすら理解していない

アインシュタインは、ホントに馬と鹿なのです (笑) 】





ブラックホールについては、こう書いています


【 重力によって、時空がゆがむ (一般相対性理論)

ますっく進むはずの光の進路が変化する

そしてあまりに重力の強い領域に入ってしまったら

光さえもそこから抜け出せなくなる


この領域がブラックホールだとされています




相対論信者のサイトに ≪ よく本に書いてある

「重力が強すぎて、光が脱出できない」というのは間違っている!!

この考え方は、ニュートン的重力の考え方で、古い


中心の密度が高い星ほど、重力ポテンシャルは低い

重力ポテンシャルがどんどん低くなると、時間の進みがどんどん遅くなる


そして、時間が止まる「事象の地平線」

(光が脱出できない場所の境界)が、ブラックホールである ≫とか

アホなことが書いてあります




何度も言っているように


『殊相対性理論は

≪速く進むものの時間が遅くなる≫

という話であるのにも関わらず


宇宙船そのものの動きや変化

は遅くなりません


それどころか

宇宙船の中にいるBさんの動きも遅くなりません

(=Bさんも宇宙船と同じ速度で進む)



遅くなるのは

時計の針の進み方や、老化なんかです



勉強するという行為に関しては

老化とは、真逆で

時間が増えることでたくさんできてしまう

なんていう話がなされています



これだけでも時間の概念というか観念が

支離滅裂、デタラメなのは、明々白々ですが



さらに、一般相対性理論では

重力が強いほど時間が遅れることから


宇宙船が、ブラックホールに近づいていくに従い

宇宙船の動きがゆっくりになっていてき


ブラックホール近くでは

宇宙船はほとんど止まっているように観測される

なんて語られています




特殊相対性理論では

宇宙船やBさんなどといった物体が進むことは

時間としてとらえず


一般相対性理論では

宇宙船という物体が進むことを

時間の象徴としているということです




では、あなたたち学者先生方は

「時間」をどのように定義し


どのような「時間」の概念を

前提として、モノを語られているのでしょうか?

という話になりますよ(笑)』


ということです




要するに、ブラックホールのような

≪時刻を刻む速度が違う世界≫の情報は

そもそも受け取れませんよ



遠い宇宙から赤方偏移した光を受け取ることができる



この事実は、我々の知りうる宇宙では


空間が変化しているとしても、時間の刻みは一緒である

空間が変化しようと、時間は変化しない


時間と空間は一緒ではない ということに他なりません 】




2020年のノーベル物理学賞には

イギリスの数理物理学者(物理学の問題を数学的に研究する)

ロジャー・ペンローズ(1931~)が、受賞しています


ノーベル物理学賞の受賞理由は

「ブラックホールの形成が

一般相対性理論の強力な裏付けであることの発見」

とされています


≪アインシュタイン以来の天才≫なんて言う人もいます




要するに、アインシュタインにしろ、ペンロースにしろ

世に天才と呼ばれている人たちのレベルがこの程度ということは


人間の思考のレベルがこの程度ということなのです




【 主体性=真理 編 】

ハイデガー「存在と時間」




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