【 屁理屈 編 】 ウィトゲンシュタインの 「語りえぬもの」 一般人の哲学に対するイメージというのは 「何を言っているかよくわからず、役に立たない」 「難解な言葉で、意味ありげなことを言っているだけ」ですよね なぜそうなのでしょうか? 極端に言うと 哲学には、絶対主義と、それと対極をなす懐疑主義しかないからです 言い換えると「観念(主観)の塊」と「屁理屈」しかないということです ホントは、哲学的問題は、全て解決できるはずです なぜなら、人間の世界とは、言葉の世界であり ≪人間の認識において≫、人間がとりあえず決めたこと ≪仮定≫のことを言葉によって区別したにすぎないからです ではなぜ、「観念の塊」か「屁理屈」かになってしまうのでしょうか? それは、言葉にだまされてしまうからです 言葉を≪吟味≫しないで使用するからです 但し、私が「言葉を吟味せよ」というのは ラッセルやウィトゲンシュタインを源流とする「分析哲学」とは違います 20世紀最大の哲学者と称される ウィトゲンシュタイン(1889~1951・言語哲学者)の 「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 〔語られたものだけが、現実になり、真実にもなる〕 という言葉によって 形而上学(けいしじょうがく)は終焉を告げた なんてことになっています 哲学の本質、目的、方法といったものを哲学する 「哲学の哲学」と呼ばれているものもあります ≪メタ哲学≫です (メタとは「超」とか「高次」といった意味を持つ英語の接頭語) ウィキペディアの「メタ哲学」には ≪ 哲学におけるあなたの目的は何か ハエにハエとり壺からの出口を示してやること ≫ ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン, 『哲学探究』, 309 また ≪ 哲学の正しい方法とはこうであろう 言えること= つまり自然科学の問題= つまり、哲学によってなすべきこと が含まれていないようなこと以外は 言わないことである そして、誰かが形而上学的なことを 言おうとしたときには 彼は、自分の(彼の)問題の中の確かな標識に 何の意味も与えられないことを説明してあげること しかし、この方法は他人を(彼を)満足させられないだろう 彼は我々に哲学について教えてもらった という感じがしないだろう しかしこれが唯一の厳密に正しい方法であろう ≫ ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン, 論理哲学論考, 6.53 とあります ウィトゲンシュタインに言わせると 以下のような話になるはずです 【 ペンが消えた → どこへ行ったのだろうか? → 机の下に落ちた これに対し 火が消えた → 火はどこへ行ったのだろうか? → こうした問題には「答えはない」 というより、問題自体「意味がない」のである なぜなら、火はどこかに行くものではなく 消滅するものであるからであり 言葉のルールにおいて間違えているからである 同様に、死=命が終わった → 命はどこへ行ったのだろうか? → 思考自体間違えで、意味がない → 「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 】 しかし、私たちは 推論によって、言葉の意味を判断しているのです 例えば、「コーヒー入れます?」 → 相手が「コーヒー飲むと眠れなくなるからね」と答えると 私は「いらないんだ」と推論します 同様に「火はどこへ行ったのだろうか?」 という友人の問いに対し 私たちは、彼が「火は消えたあと、別世界に行くのだろうか?」 という哲学的な話をしていると推論するのです つまり、言葉のルールに反してもいないし 彼の論題自体には、間違えなんてありませんよ(笑) 例えば「食事」とか「日没」とか「雨」のようコトは その原因となる人間、太陽、水を、実体ととらえると 現象として、我々の世界にあると言えます しかし、雨の場合 「雲は、水の集まりだけど 水が実体で、雲は現象というのではなく 雲自体、実体と言えるのだから 同じ水の集まりの雨だって実体である」とも言えます また「雨という言葉の概念には、動き(変化)を含むので やはり現象である」とも言えます 「水が雨の実体である」ととらえると 雨は、実体でなく、≪現象≫として存在すると言えるのです つまり、実体か、現象かは、便宜的にしか分けられないのです さらに、「愛」とか「善」とかいった抽象的な存在は 実体としてあるとも、現象としてあるとも、概念としてだけある とも言えます 「近代言語学の父」と称されるスイス人言語学者 フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)は シニフィアン(記号表現)・シニフィエ(記号内容) という概念を提示したことで知られます 言葉(記号)が、シニフィアンと、シニフィエ という2つの要素で成り立つということです シニフィアンは「海」という文字や、「umi」という音声のこと シニフィエは、シニフィアンによって意味されたりあらわされる 海のイメージや、海という概念、意味内容のことです すなわち「言葉」というのは シニフィアン(音や文字としての言葉)と シニフィエ(概念)とを、必ず有する シニフィアンと、シニフィエによって成立している という話なのです 確かに、我々は「神」とか「死後」とか「霊魂」とか いう言葉や存在にさえ、≪概念≫や≪観念≫をもちます しかし「多次元世界」なんてものはどうですか? 思考も、想像も、表現もできないですよね ≪我々の存在する世界を超えた世界≫ といったくらいの薄い薄い意味内容しかもち得ないのです そうなると「言葉」(シニフィアン)だけあって 「概念」(シニフィエ)がない存在も 我々の世界に「ある」ということさえ言えるのです それから「死後の世界」とは ≪死んだあとにいく世界≫という意味であって その内容こそ、宗教や社会によって違っているとしても 言葉自体の概念は、明快です これに対し「幸福」とか「時間」といった言葉の方が概念が明確でなく その意味においては、どちらが形而上学なのか? ということにもなるのです 人間の世界とは、言葉の世界であり ≪人間の認識において≫、人間がとりあえず決めたこと ≪仮定≫のことを言葉によって区別したにすぎないということです また、そもそも、人間の言葉による区別は完全ではなく 物差しで測るように、全てのものごとをキレイに分けらないのです こういうことを知らずに「屁理屈の哲学屋さん」というのは 「因果」は、確率性にすぎない (ヒューム) 「物理学の真理」は、経験できない (マッハ) 「時間」は、幻想である (ラッセル) 「霊魂」や「死後」は 言葉のルールにおいて間違い (ウィトゲンシュタイン) と、言っているのです ウィトゲンシュタインなんかは ≪ 私の哲学の目的は ハエにハエとり壺からの出口を示してやること ≫と 自分のことを言っています(笑) 彼らは、つまり、≪人間の認識において≫ あるいは、≪人間の思考において≫の 仮定の定義について、「間違え」と言っているのです そりゃ、間違えと言えば、間違えと言えますよ ≪仮定≫の真理や概念なのですから(笑) しかし、≪人間の認識において≫ あるいは、≪人間の思考において≫の 【真理】や【概念】を否定したら、それで話はおしまいです なぜなら「存在」も「世界」も「時間」も 「幸福」も「価値」も「愛」も・・・・ 全ての哲学的論題は ≪人間の認識において≫ あるいは ≪人間の思考において≫ のものでしかないからです 私が言っていることは、そういったことではありません 我々は言葉にバーチャルな概念をこしらえ その上に生活しているのだから どこまでがそのモノ自体に対する概念やイメージで どこからがその上に積上げた バーチャル的な概念かを見極めることが必要である と言っているです そのモノ自体に対する概念とは 人間の認識能力において、他のモノやコトと区別した原型の概念です この概念は、人間の認識能力がいつの時代 またどこの地域においても さほど差がないので、人類的な普遍性を持ちます ちなみに、現代人と同じ特徴を持った生物 (新人・現生人類=ホモ・サピエンス)が現れたのが およそ20万年前とされ、脳の容量1400mlというのは そのとき以来、変わっていないといいます 例えば、「神」という言葉でいうならおよそ 『こまったときに助けてくれて 平等に管理(信じる者は救われる)してくれる存在』くらいが そのモノ自体に対する概念やイメージでしょう 教会を通してでなければ、神の救いは受けられない (カトリック) 万人が直接「神」とつながった祭司であり 神の救いを直接受けられる (プロテスタント三原則の「万人祭祀主義」) なんてのは 「神」という言葉の上に、積み上げたバーチャル的な概念です 人間の都合=価値 として積み上げられたものです こういうものを取り払ったところに 事物の≪本質≫や≪真理≫を見極めるカギ 哲学的問題を解決する糸口 がある ということなのです むろん、事物の≪本質≫や≪真理≫といっても 「人間の認識において」という前提はつきます 哲学というのは 【自分で哲学する】ためにあるのであって 哲学界において ≪釈迦の先生≫ 〔八万法蔵と表現される 膨大な数の仏典を理解する人の意味 学問についての知識が豊富で、説明が上手とかで 重宝がられている学者先生〕になろう なんていうことほど、無意味なことはないですよ なぜなら「観念の塊」や「屁理屈」について 正しい解釈をしよう 一語一句、正しく理解しよう なんてところに意味ってありますか? ということです 大学の先生にでもなって それで飯を食っていこうというなら 意味はあるのでしょうけど(笑) こんなものは、ざっと勉強して 本質をつかんで、自分で考えなさい ということです シモーヌ・ヴェイユの自己否定 において、このよう↓に書きました 【 無駄な英語ってすごく多いですよね 今では定着した感がありますが 「コンセンサス」なんて「合意」か「意見の一致」ですみますし・・・ もちろん、日本語にない言葉もあるので カタカナ語が全て悪いとは思いませんが・・・ 一般的な日本人は、日本語で物事を考えるので 日本語でない言葉は余程意識しないと 正しく認識できないようになっています なので、それなりの地位にいて、カタカナ語が多いと その人は、(本質をごまかしたい) 詐欺師・ペテン師 と認定せざるを得ない でなければ、本当に≪残念な人≫ということになります 】 哲学書のなかでも ウィトゲンシュタインや、ハイデガーのそれは とりわけ難しく、途中で読むのをやめてしまう人がほとんどです 彼らが、なぜ難しく書くかというと 中身がないものを、中身があると装うためです なぜ、そう言えるのか? ですって 人間である以上、誰であれ 五次元の世界など、思考も、想像も、表現もできないはずです 「多次元世界」「宇宙の果て」「宇宙の形」 こうした究極的な問題については 物理学者でも、数学者でも、そこらへんの一般人でも 解答に、さほどの違いはないです(笑) 人間の思考というものには、限界があるのです またその「思考の限界」が、この程度のところにあるのです だからそう言えるのです 「時間論」のトップページにこう書きました 【 GPSとカーナビがちゃんと機能している この事実が、相対性理論の正しさを証明している これは詐欺です 逆に、相対性理論がデタラメなことを証明しているのです 陽天: 過去とは「過去の星の光が、現在に届いた」の 「過去」とはちゃうで これは到着時間の差を考慮した場合に語られる過去や 光をひかり号に譬えると 過去に大阪駅を出発したひかり号が、今、東京駅に到着したからといって 過去の大阪駅と現在の東京駅で交信できるなんてことやない だから、未来の展望台の人とはラインできん 展望台やなくても、現在の1階の人と 未来の2階の人とでもラインできん つまり【時刻の違う物体は同じ空間には存在できん】のや でも、2階の人とラインができるし 富士山の頂上にいる人とでもラインできる これは【同じ時刻を共有している】からや 一般相対というのは、重力によって時空がゆがむ 時空がゆがんだ分、光の進路もゆがんだり、曲がられたりする 例えば、A地点→B地点の光の進路がゆがむと 光はその分、長い距離を進むことになり、その分、時間がかかる = 時間の遅れ という理屈なのです なぜ、光の到着時間が長くなると 我々の世界を成り立たせている「時間」が遅れるのでしょうか? まず、 人類は、なぜ、太陽や月の動きから 年、月、日、時刻といった「時間」「時計」を つくることができるのでしょうか? 太陽や月の運動に、規則性があるからですよね 光は、誰がどのような状態で観測しても一定である 光は、なにものにも左右されない ということですから アインシュタインに言わせると 時間を考えるのに、最もふさわしい存在ということなのです 一般相対というのは、前述したように 重力が大きいほど、時間が遅れるわけですから 宇宙空間に対して、地球の方が≪時間が遅れる≫とされています 2020年には、東大と理化学研究所のチームが スカイツリーの地上階と展望階に 光格子時計(ひかりこうしどけい)という めちゃくちゃ精度の高い原子時計置いて実験し ≪一般相対の「時間の遅れ」を検証できた≫と嘘八百を並べています アインシュタインの≪時間の遅れ≫とは 【時刻を刻む速度が遅れる】ということです そうなると 地上階よりも、展望階の方が「未来」にあることになりますよ!! あなたは、未来の人と交信できますか? GPSとカーナビがちゃんと機能しているということは GPS衛星は未来に存在していない = 時間の遅れはない ということなのです こんなことすら理解していない アインシュタインは、ホントに馬と鹿なのです (笑) 】 ブラックホールについては、こう書いています 【 重力によって、時空がゆがむ (一般相対性理論) ますっく進むはずの光の進路が変化する そしてあまりに重力の強い領域に入ってしまったら 光さえもそこから抜け出せなくなる この領域がブラックホールだとされています 相対論信者のサイトに ≪ よく本に書いてある 「重力が強すぎて、光が脱出できない」というのは間違っている!! この考え方は、ニュートン的重力の考え方で、古い 中心の密度が高い星ほど、重力ポテンシャルは低い 重力ポテンシャルがどんどん低くなると、時間の進みがどんどん遅くなる そして、時間が止まる「事象の地平線」 (光が脱出できない場所の境界)が、ブラックホールである ≫とか アホなことが書いてあります 何度も言っているように 『殊相対性理論は ≪速く進むものの時間が遅くなる≫ という話であるのにも関わらず 宇宙船そのものの動きや変化 は遅くなりません それどころか 宇宙船の中にいるBさんの動きも遅くなりません (=Bさんも宇宙船と同じ速度で進む) 遅くなるのは 時計の針の進み方や、老化なんかです 勉強するという行為に関しては 老化とは、真逆で 時間が増えることでたくさんできてしまう なんていう話がなされています これだけでも時間の概念というか観念が 支離滅裂、デタラメなのは、明々白々ですが さらに、一般相対性理論では 重力が強いほど時間が遅れることから 宇宙船が、ブラックホールに近づいていくに従い 宇宙船の動きがゆっくりになっていてき ブラックホール近くでは 宇宙船はほとんど止まっているように観測される なんて語られています 特殊相対性理論では 宇宙船やBさんなどといった物体が進むことは 時間としてとらえず 一般相対性理論では 宇宙船という物体が進むことを 時間の象徴としているということです では、あなたたち学者先生方は 「時間」をどのように定義し どのような「時間」の概念を 前提として、モノを語られているのでしょうか? という話になりますよ(笑)』 ということです 要するに、ブラックホールのような ≪時刻を刻む速度が違う世界≫の情報は そもそも受け取れませんよ 遠い宇宙から赤方偏移した光を受け取ることができる この事実は、我々の知りうる宇宙では 空間が変化しているとしても、時間の刻みは一緒である 空間が変化しようと、時間は変化しない 時間と空間は一緒ではない ということに他なりません 】 2020年のノーベル物理学賞には イギリスの数理物理学者(物理学の問題を数学的に研究する) ロジャー・ペンローズ(1931~)が、受賞しています ノーベル物理学賞の受賞理由は 「ブラックホールの形成が 一般相対性理論の強力な裏付けであることの発見」 とされています ≪アインシュタイン以来の天才≫なんて言う人もいます 要するに、アインシュタインにしろ、ペンロースにしろ 世に天才と呼ばれている人たちのレベルがこの程度ということは 人間の思考のレベルがこの程度ということなのです 【 主体性=真理 編 】 ハイデガー「存在と時間」 ヒュームの「因果論」・ ラッセルの「時間幻想説」 (ひとつ戻る) |
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