緋山酔恭の「価値論」 主体性=真理の哲学 ハイデガー「存在と時間」



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 主体性=真理 】




ハイデガー「存在と時間」



「存在論」といえば

ドイツの哲学者 マルティン・ハイデガーです



彼は、ナチスの協力者としても知られます


ナチス党が政権を掌握した日に、フライブルク大学総長となり


ナチ党員としてナチス革命を賞賛し

大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴えたといいます



大戦後、フランス占領当局により取り調べを受け(ハイデッガー裁判)

大学を追われたましたが、のちに名誉教授として復帰しています





彼の「存在と時間」を

20世紀最高の哲学書と評価する人も多いです


この書は、未完で終わっていますが

岩波文庫のもので全4巻

光文社の古典新訳文庫のものでは全8巻という大著です



彼の興味はただ1つ「存在」です



およそ以下のようなことが

ハイデガーの思想のです



【 哲学の歴史は「これは本である」(本質存在)

ということだけを重視し

「ここに本がある」(現実存在)を無視してきた

ものごとの「本質」だけを求め、「存在」そのものを無視してきた



「存在」(ある)を理解しているのは人間だけである

だから「ある」は「人間にとってのある」であり

「それ自体としてある」のではない



つまり「物体」は単なる物体ではなく

コップは、水を飲む「ために」

あるいは水を飲むためのモノ「として」

「ある」のである




それらが出会う場が世界であり

それらを「現に」ここで、出会わせているのが人間である

〔それゆえハイデガーは、人間を「現存在」と呼ぶ〕



物体は人間によって本質(=道具性)を与えられて存在するので

人間のみが「実存」である 】



「実存」とは哲学用語で「主体」を意味します




【 モノは人間によって対象化されるが

他者は対象化されるだけでなく、こっちも対象化する


そして他者の視線により、優越感や劣等感を抱いたり

みんなと同じであろうと思う


こうして、人間は

本来的な自己を失い「ひと」として生きている




本来的な自己を自覚させるのは「時間」である



しかしその時間は

非本来性が本来性であるかのように誤解されている


過去の非本来性は「忘却」であり

現在のそれは「現前」であり、未来のそれは「予期」である


この非本来性は、直線的な時間の観念である



これに対し、過去の本来性は「反復」であり

現在のそれは「瞬間」であり、未来のそれは「先駆」である




「ひと」は「不安」や「死」の自覚を介し

自己の有限性に気づき、「本来的な自己であれ」という

「良心の呼び声」に目覚めるのである




我々は「必ず死ぬ」という事実を忘れ、目先のことに没頭し

死の自覚を紛らわして生きている



この本来的自己を忘れた状態=「頽落」(たいらく)から脱するには

「死」という事実を自覚しなければならない



死の自覚により「このままではいけない」と

未来の可能性を求めることができ

本来的なあり方に立ち戻ることができる



これによって、過去からの自分を取り戻し

未来への先駆的な覚悟を得

瞬間としての現在を決意的に生きることができる 】


といったようなことです




彼の思想は、ツッコミどころ満載です(笑)




まずおかしいのは

「存在」(ある)を理解しているのは人間だけ

という思考です


ねこだって、バッタだって理解しているでしょ(笑)

という話になりますよ





人間の世界とは

全てが道具的に処理されて存在している

というのは、確かにそうでしょう




例えば、我々は、太陽という存在を

光を供給し、万物を育むことから、価値(必要)とみなします


しかし、紫外線については

人体に悪影響があるとして、反価値(不必要)とみなします



風光明美な場所→景色がいい=価値

しかし、災害が多い=反価値


セミや秋の虫→風情がある=価値

ゴキブリ→汚い=反価値



といったように

宇宙から、部屋のゴミやチリに至るまで


人間にとって価値か反価値か

あるいはどっちでもないか によって認識されています




さらに

コップ→ 水分を溜めて口に運ぶモノ

コオロギ→ 秋の夜に風情を演出するモノ

山→ 神聖な存在として仰ぎみられるモノ



といったように

あらゆる存在が、主体(人間)によって

価値判断され、道具性(機能)が与えられています



つまり、そうした総体が、我々の世界と言えます




とはいえ、ハイデガーによると

≪世界とは、人間によってモノとモノとが出会う場であり

全てが「〇〇するためのモノとして」関連づけられた世界である≫

ということですが


全ての物質(原子なり分子)が

宇宙で循環しているということを別にすると


爪切りと、バッタに、関連性なんてないですよ(笑)






個人(人間)の主体性を重視し

それによって、本来的なあり方を回復すべきである

と、考える立場を「実存主義」といいます



その代表が、サルトル(1905~1980・フランスの哲学者)です



キルケゴール(1813~1855・デンマークの哲学者)が

実存主義の祖とされていて

ニーチェ(1844~1900・ドイツの哲学者)も実存主義とされています



ハイデガーも「実存主義者」とみなせます


現に、サルトルによって

「ハイデガーの哲学は実存主義である」とされました



ハイデガー自身は、これを否定していますが

ハイデガーの立場が実存主義でないというなら

なにをもって実存主義と言うのか?

というほど、完成された実存主義です(笑)




さて、この実存主義ですが

≪本来的自己を回復させることが人生の目的≫

といった思考は、別に斬新でもなんでもありません


仏教は、自己に内在する≪仏性≫という

本来的自己を顕現することで、仏になるという立場です






それに、ハイデガーは

≪死の恐怖によって、本来的な自己を回復できる≫

といいますが、そういかない方が圧倒的に多いですよね


宗教というものは

「死んだら地獄です」などと恐怖がらせて入信させる

入信者は、盲目にされて、本来的自己を見失っていきます(笑)


また、お金がそんなにあるわけではない一般庶民が

死後の安楽を願うあまりに

寺に何十万も寄付するなんて話はザラにあります




それから「私は夫の妻として存在する」

という現実への自覚があるからこそ


倫理に反したことをすることで

「快楽」を求めるのが「不倫」です(笑)



つまり自分の存在を確認することこそが「生」であり

それをエスカレートされていくのが人間の本質といえます



むしろ、人は自分が有限であることを

悟っているからこそ、快楽を求めたり、スリルを求めたり

優越を求めたりしているのです






ハイデガーの思想の根幹というか要に


【 ≪存在している≫というのには

私は〇〇である(本質存在)と

〇〇に私がある(現実存在)とがあるが


これまで人類は、現実存在の方を無視してきた

現実存在を考えずに生きてきた 】という考えがあります



これは、まるっきりデタラメです


なぜなら≪本質存在≫と≪現実存在≫とは

一体の≪存在の根拠≫としてあるからです


人生とはこの≪存在の根拠≫を求め

獲得するための活動に他にならいのです




実存主義の祖 キルケゴールは

【 人間とは、普遍化・抽象化〔共通している性質だけを抜き出して

作り出された1つの概念〕された人間

すなわち本質としての人間ではなく


それぞれの実存(=主体)が、それぞれの人生を生きる

具体的な人間として“いま・ここ”において存在するのである 】

と言っています




キルケゴールやハイデガーは

例えば、存在のあり方を

≪私は〇▲会社の部長として存在する≫(本質存在)と

≪〇▲会社の部長、そこに私の存在がある≫(現実存在)

というふうに分け


我々は、≪〇▲会社の部長、そこに私の存在がある≫

という現実存在を無視し

「ひと」(本来的な自己を失った存在)となっているなんて論じたわけですが



人生とは、職場、学校、家庭・・・・

あるいは他人の心の中に、さらには歴史という場所に

自分の居場所をつくっていくことに他なりません


そして、自分の居場所をつくること(現実存在)は

そのまま「自分とは何か」(本質存在)を知ることに他ならず


ともにアイデンティティ

(自分はこういう人間であるという明確な存在意識)

自分の根拠をつくることに他ならないのです




≪私は〇〇家の父である≫という

「自分とは何か」をこしらえるのと


≪〇〇家の父、そこに私がある≫という

自分の居場所をつくるのは一体なのです



現実存在を考えずに生きているどころか

私たちは、絶えず、現実存在に直面して存在しているのです




そして結局、人間は自分の根拠をつくるために

世界に存在しているのです


≪自分とは〇〇である≫と≪自分は〇〇としてある≫の

〇〇を埋めようと、生きているのです






≪私は〇▲会社の部長として存在する≫(本質存在)

≪〇▲会社の部長、そこに私の存在がある≫(現実存在)

どちらも、事実認識であり「真理」です


そして、『〇▲会社の部長』が、私にとっての存在根拠であり

「価値」なのです




西洋哲学というのは

価値と真理の違いを理解しないまま、ものを語ります


ハイデガーの論理も同じで

≪私は〇▲会社の部長として存在する≫は、真理の話

≪〇▲会社の部長、そこに私の存在がある≫は、価値の話

となっているということです





今では、全ての人間に「尊厳」という

≪価値≫が、認められています


動物が生命維持や子孫を残すことだけのために

毎日の時間を費やしているのに対して

人間はそれだけではなく、自分の生き方を持っています


たとえそれが他者からの洗脳による無知に根ざしたものだったとしても

「信念」を持って生きることができます


誇りを持って生きることができます



尊厳という概念が生み出された根源には

“人間は生き方を持っている  信念を持って生きることができる

誇りを持って生きることができる”ということがあるはずです



しかし、かつては、黒人は、単なる「肉と骨の生き物」として

奴隷として扱われてきたという歴史があります




とはいえ、人間が、肉と骨でできている以上

≪黒人は、肉と骨の塊の生き物である≫と言っても

間違えではありません


つまり、≪黒人は、肉と骨の塊の生き物である≫と

≪私は、人間であり、生き方をもっている≫とは

「真理値」の大きさにおいては一緒なのです



真理値に違いがないとしたら

なにに間違えがあったのでしょうか?


黒人と自分に関する

≪命という価値≫の「重み」の認識に、間違えがあったのです




ハイデガーの話からいくと

「肉と骨の生き物」→ 事実(真理)=本質存在

「〇▲会社の部長」→ 価値=現実存在

となりますが

そうではありません



「肉と骨の生き物」も「〇▲会社の部長」も

ある主観にとっての≪価値≫についての概念であり

両者の違いは、その重みにあるのです




つまり、ハイデガーの哲学というのは

存在について、評価(価値)の側面から語る「価値論」と


存在とはそもそもなんなのかについて

認識(真理)側面から語る「存在論」とがごっちゃとなり


彼の出した結論は、存在論の存在ではなく

価値論の存在でしかないということなのです







また、ハイデガーは、物体は人間によって

本質(=道具性)を与えられて存在するので

人間のみが「実存」(主体)である と言いましたが



人間の生活様式は、テクノロジーによって生み出されその時代に

ひょっこりと現れたモノによって、変化していきます



電車がなかった時代は、ほとんどの人が生れた村で

親の家業を継いで、同じ村の異性と結婚し、一生を終えていたのです



テレビもないし、他に楽しみがないから

子づくりが唯一の楽しみで、嫁とセックスばかりしていました

だから子だくさんだったわけです(笑)




私の中学生の時代には

ノーパン喫茶なんてのが流行りました


そんな時代は「パンチラ」

という言葉だけで興奮できたものですが


今は、携帯で「パンツ」を検索すれば

パンツの写真がいくらでも出てくる時代です(笑)




欲求というのは、たまっていって、圧縮され

その反動で押し出されたり、爆発したりする形で発散されるものです



ところが、現代は、いつでもどこでも

情報と知識を得ることができ、見れちゃうし、聞けちゃうし

バーチャル的な体験もできちゃいます


冒険も、恋愛も、格闘もできてしまうのです



そうなると、欲求が少しずつ発散されているから

大きな爆発が起こらなくなっているのかもしれません


これは性欲に限らず、全ての欲求に対して言えることです




また昔は、お金がなければ飲んだり食べたりもできないから

家にこもるしかなかったのですが

今はこもるといっても

ネットで世界とつながっています 書き込みもできちゃいます


引きこもりといっても、なにが引きこもりか訳がわかりません

世界とつながっているわけですから(笑)




そうした結果、人間の欲求が小出しにされているというのは

テクノロジーというラインが人間の生活様式ばかりでなく

欲求を発散する形をも変えていくことを意味しているのです





つまり、人間という「存在」の≪本質≫こそが

物質によって運命づけられていると言えるのです


道具というのは

人間の欲求を充たすため、実現させるために生れるもので

人間がモノを支配しているように信じられていますが


むしろ、モノによって人間の世界は制限を受け

変化させられているのです






マルクス(1818~83・

ドイツの社会主義哲学者。経済学者)は


「歴史とは、弁証法的に物質世界が発展してゆく過程であり

物質の発展にともなっておこる人間あるいは

生物の思考が増大してゆく過程である」としましたが


物質の進化が、構造(生活様式や文化)を変化させ

主体をも変化させているという側面もあるということです




但し、その構造を変化させる

≪テクノロジーによりひょっこりと現れたモノ≫というのは


≪我々の世界において、その道具性(機能)が

価値として認められたモノ≫ということに他ならず


モノ(道具)やコト(道具性)に価値を与えているのは

あくまで主体=人間です




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