緋山酔恭の「価値論」 屁理屈の哲学 ヒュームの「因果」・ラッセルの「時間幻想」



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 屁理屈 編 】




ヒュームの「因果論」



プラトンのイデア論(絶対主義)と

ソフィスト(当時のギリシア哲学者)たちの相対主義

との論争を源流とする絶対主義と相対主義の対立おいて



絶対主義は、ヘーゲルの「絶対精神」(宇宙精神)で頂点をむかえます



一方、相対主義は、経験主義を経て、懐疑主義へと至り

イギリスの哲学者 ヒューム

(1711~76・デイヴィッド・ヒューム 歴史学者。政治思想家)

の「因果論」において頂点をむかえます





ヒュームによると


【 因果性とはある出来事と別の出来事とが

空間的、時間的につながって起こることを

人間が繰り返し体験することにより


人間の心の中に因果が成立しているだけのことである

習慣によって心の中にだけ成立したものである


すなわち原因と結果をつないでいるものは

経験に基づいて未来を推測するという心理的な習慣であり

人間が作ったものにすぎない


因果の必然性は、心の中に存在しているだけの

蓋然性(がいぜんせい・確率性のこと)にすぎすない


過去の現実と未来の出来事の間に必然的な関係はない

だから因果法則はなく、そう感じるのは主観である 】


ということです




簡単にいうと、ヒュームの因果論というのは

原因と結果の関係、法則を

「気のせい」「思い込み」と言っているわけです



ただ、私から言わせると

「因果はない」というのも「気のせい」「思い込み」です



「真理」といっても

あくまで≪人間の認識において≫とか

≪人間の決め事において≫といった前提がつくということです



つまり「因果がある」「因果がない」どちらも

≪人間の主観≫においてのことでしかないということです




そして、こうした

≪人間の主観≫においての世界で


「因果の法則がある」ことを認めると

世界の現象を、整合性をもって説明できるのです


それゆえ、因果が、≪人間の認識≫において

あるいは、≪人間の決め事≫としての【真理】とされているのです




「因果がある」「因果は真理である」

これは、因果によって、世界の現象を、整合性をもって

説明をつけることができるにすぎない→ 思い込み、気のせい

ではなく


因果によって、世界の現象を、整合性をもって

説明をつけことができる→ 「因果がある」「因果は真理である」

と、認められているということであり


ヒュームの論理は、逆さまであるということです







ラッセルの「時間幻想説」



バートランド・ラッセル

(1872~1970・イギリスの哲学者・数学者。伯爵

ノーベル賞受賞)は

「世界五分前仮説」というのを立てて

過去の実在性を、否定しました


これは「世界は実は5分前に始まったのかもしれない」

という仮説です



≪5分以上前の記憶がある事は何の反証にもならない

なぜなら人間が偽の記憶を植えつけられた状態で

5分前に世界が始まったのかもしれないからだ≫

といったものです




「あなたはUFОで人体実験をされたかもしれない

そんな記憶がない事は何の反証にもならない

なぜなら宇宙人にそのときの記憶を消された状態で

地上にもどされたかもしれないからです」とか


「我々に過去世の記憶がないのは

記憶を消されてから、この世界に新たに生まれてくるからです」


とかいった話と、全く変らないレベルのものなのです(笑)




ただの屁理屈なのですが

ラッセルは、世界5分前仮説により

過去を、夢や幻想のレベルに置いています


また、≪未来についても、まだ起きていないことである

したがって存在するのは現在だけで

過去→現在→未来という時間の観念は幻想である≫

としました





屁理屈を証明できますか?


まず、この説では

創造主の存在を証明しなくちゃならないですし

その神は、人間の思考によって創造された神でしょ

という話なります




さらに、5分前に、世界が神によって創造された ということは

宇宙的な時の流れの「過去」というものがあることを前提としていますし


さらにもっと過去から、創造神が存在していることも前提としています


さらに、5分前を起点として、今があるということは

未来のあることまでも前提としていますよね




そもそも「過去」「未来」という概念は

「今」「現在」というモノに付随して生まれてくるものです



すなわち「今」があれば

必然的に「過去」も「未来」も生まれてくるのです







ヒュームもラッセルも馬と鹿



「新型コロナワクチンに警鐘を鳴らす医師と議員の会」により

新型コロナワクチン接種中止の嘆願書が厚労省に提出された

なんてことがありましたよね



この嘆願書では

「新型コロナワクチン接種後、356名の方が死亡」という

誤解を招く表現を使っていました



この表現は「時間の前後関係」しか言っておらず

ワクチンとの因果関係を言ってはいません



もし因果関係があるならば

「新型コロナワクチン接種が原因で356名の方が死亡」

と書くはずです



にもかかわらず、なぜこの表現を使っていたかというと

嘘を言わない範囲内で


ワクチンのせいで多くの方が亡くなっているという

「印象」を植え付けたいからですよ



「厚生省の数字は、まやかしだ」

と言っている人たちが、同質の表現を使っていた

ということなのです




いずれにしても

因果という関係には、かならず「時間」という現象が

ともなうので


こうした子供だましの表現で

世間をだますことが可能なわけです




ヒュームの主張を分かりやすく説明すると


【 あなたは

電灯のスイッチを切る(原因)→ 部屋の電灯の明かりが消える(結果)

と言うけど


停電によって、部屋の電灯の明かりが消えたのかもしれないですよね


だから

電灯のスイッチを切る(原因)→ 部屋の電灯の明かりが消える(結果)

といった因果関係は、思い込みです


こうした因果関係は

すべて経験からくる思い込みです 】


といったような話です




これは大嘘で

停電によって(原因)→ 部屋の電灯の光が消えた(結果)

という因果関係がちゃんと存在します



因果関係とは

その構造を自分が、あるいは人間が

知ることができる できない は別にして


「時間」というものが存在するなら必ず存在するのです


同様に「時間」は、「因果」いうものが存在するなら

実在しているということが言えるのです






よく「因果」や「時間」は存在しない

という話は、およそこういうものです


【 A、熱した鉄の棒は、西暦2020年1月1日には熱い

  B、熱した鉄の棒は、西暦2020年1月2日には冷たい


AとBを因果的に関連付けて

鉄の棒の温度が変化した というのは誤りである


→ 時間の流れは存在しない

→ 時間が流れているという感覚は幻想 】



こんなの簡単に論破できますよ(笑)


なぜなら、この主張は

時間が存在することを前提に語られているからです



いいですか!!


A、熱した鉄の棒は、西暦2020年1月1日には熱い (先)

B、熱した鉄の棒は、西暦2020年1月2日には冷たい (後)


鉄がどうの関係ないから(笑)





「〇〇さんがこの団地に引越しをしてきてから不幸が続いている」

こうしたレベルの


あるコトが、別のコトの後に起きたことを捉えて

先のコトが原因となって後のコトが起きたと判断する誤り(バイアスの一種)を


認知心理学や社会心理学では

≪因果の誤謬(ごびゅう)≫といいます



≪因果の誤謬≫というのは

そもそも「時間」(先・後)を前提として成り立つ概念なのです





ヒュームは、こう言います


【 因果性とはある出来事と別の出来事とが

空間的、時間的につながって起こることを

人間が繰り返し体験することにより


人間の心の中に因果が成立しているだけのことである

習慣によって心の中にだけ成立したものである


すなわち原因と結果をつないでいるものは

経験に基づいて未来を推測するという心理的な習慣であり

人間が作ったものにすぎない 】



つまり、ヒュームは

「因果はそもそも存在しない」

「存在するのは≪因果の誤謬≫だけだ」

と言っているのです



こんなのも簡単に論破できます



≪因果の誤謬≫が

時間があることを、前提とする話であること


そして、時間とは

≪作用(原因)がある効果(結果)をもたらすまでの期間としての時間≫

のことなので (基本、これ以外の時間はない)


時間がある ということは 因果がある ということなのです




ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」




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