【 釈迦と禅と天台 編 】 天台の空・仮・中の真理 ヘラクレイトスやパルメニデス また、プロティノスの思想というのは 禅宗の「万法帰一」(全ては、根源的な1つの原理 より生じていて全体として1つである)に近いです すなわち一元論です これに対して、法華経は 諸法=全ての事物・事象 が 実なる相=真理 を、ありのままに示している という考えに立ちます これを「諸法実相」(しょほうじっそう)といいます 例えば、ドアのあけしめ1つに その人の生命の状態があらわれる 社会現象1つにその国の本質が潜んでいる と見ます なので、法華経においては、世界を多元論的に説明できます すなわち、個々の1つ1つに真理は具わっていて オーケストラの一員のようにメロディを奏で 宇宙という大きな真理を形成しているという考え方が可能です 細胞、身体、個人、社会、国家、世界、地球、銀河系… これら1つ1つが、仮の存在ではなく 真実・実在のものであり 相互依存の関係を築きつつ より大きな実在の一部として存在していると見る ということです 法華経を拠りどころとするのが、天台宗と日蓮宗です また、中国天台宗の祖 智顗(ちぎ・538~598)は 全ては、不変的、固定的な実体を持たず 一瞬一瞬変化してやまない「空」という真理 空と表裏一体の真理で、全てが空ゆえに 全ては因と縁によって 一瞬一瞬 仮に和合している「仮」(け)という真理 ここにある石は、空でもあり仮でもあるが この石はこの石以外には存在せず ≪この石≫というありのままの実在である「中」という真理 の三つの真理を説き あらゆるモノやコトには 空・仮・中の三つの真理が具わっていて それぞれがとどこおりなく融和しているという 「円融の三諦」(えんゆうのさんたい)を唱えています 釈迦の立場、つまり「空」という立場では 赤ん坊のときのあなたと 今のあなたが別の存在ということになってしまいます もっと言えば、今のあなたと 次の瞬間のあなたとは別の存在ということになります ところが、赤ん坊のときのあなたと 現在のあなたは、≪あなた≫としてちゃんと一貫しています これについて釈迦の立場では説明がつきません 仮に3年で、私たちの身体の全ての細胞が入れ替わるとしましょう しかし「3年経って細胞が入れ替わったんだから 今の自分は以前の自分とは違う だから、以前の自分がした借金は払わなくてもよいはずだ」 なんて話は通用しないですよね(笑) これに説明をつけたのが 「阿頼耶識説」(あらやしきせつ)です 釈迦は、すべてが「空」であるという立場から 不変的・固定的な自己の本質である バラモン教のアートマン(不滅の自己・霊魂) の存在を否定しました ところが一方では、バラモン教の「業」(ごう)や 「輪廻」という考えに立って 仏教という新宗教を創始しました そうすると「輪廻する主体」の存在が問題となります この「輪廻する主体」について 釈迦が没したあと様々な説が展開されました そして定着したのが「阿頼耶識説」です 阿頼耶識という無意識層に 身・口・意(心)の全ての「業」(行為)= 人間のおよそ一切の行為 が蓄積されていく という考え方です そして、霊魂でなく、この阿頼耶識いわば業エネルギーが 自己の本質であり、輪廻する主体ということです 天台の「中」の真理も、ここに通じていると思います いずれにしても 一元論、多元論 というのは ≪真理≫に対する論説ではなく 人間という主観における必要性(=価値) から生まれた論説であるということです 禅においては 全てが、宇宙の仏と一体であることから 自分の心が本来、仏性そのものである と見極めること(見性成仏)で「悟り」を得るとされています 天台宗においては ≪円融の三諦≫を知り、≪一心三観≫に至ることが 悟りの境地とされています 桜の花を見て はかなきもの、散りゆくものと観じるのは空 その一瞬、一瞬の姿に、美を観じるのは仮(け) その命としての尊さを観じるのは中 それぞれの真理が一瞬の念(おも)いに あらわれたなら一心三観を観じたことになる といったところでしょうか・・・ 以上のように「悟り」という目的の必要において 一元論だの、多元論だのは 思想化されたものであるということです 「縁起説」と「真如隨縁説」 ① プロティノスの「一者」 (ひとつ戻る) |
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