緋山酔恭の「価値論」真理とはなに? 「縁起説」と「真如隨縁説」 ①



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 釈迦と禅と天台 編 】




「縁起説」と「真如隨縁説」 ①



釈迦の立場が「一元論」なのか

「多元論」なのかも書いておきましょう



禅宗の考え方というのは

「真如」あるいは「法性」あるいは「一心」など呼ばれている

唯一絶対の原理、宇宙の根本原理、宇宙根源の法則が

縁に従って様々な相(姿)に変化して、世界を生じさせている

というものです



真如法性が、衆生の無明(むみょう)という縁に触発され生起して

万法(諸法。全ての事物・事象。森羅万象)

すなわち現実世界になるということです



こうした禅宗や華厳宗の立場を「真如隨縁説」といいます



禅と華厳は、思想的に近く

華厳では「一即一切・一切即一」

(1個と全体とは本来全く同じ存在である)と表現されます




なお、無明とは、自分のいのちに明るくないことです


無明には段階があります


例えば、父親としての自覚に暗ければ、家族を苦しめます


社会人という自覚に暗く、仕事の知識に暗ければ

会社や社会に貢献できません


さらに個人は、日本人でもあり、人間でもあります


それぞれの段階において

必要な自覚があるわけです



そして、もっとも根源的な無明とは

自分に「仏性」があることを知らないこととされています





≪真如法性が、衆生の無明(むみょう)という縁に触発され生起して

万法(諸法。全ての事物・事象。森羅万象)

すなわち現実世界になる≫という意味は



同じ世界であっても、地獄(苦しみ)、餓鬼(むさぼり)

畜生(おろか)、修羅(ねたみ)、人(平穏)、天(喜び)・・・

それぞれの境涯において、見えている世界が違ってくる


それぞれの衆生において

それぞれの差別世界がある


しかし、仏(智慧と慈悲)の目から見ると

すべてが、宇宙の真理、宇宙の仏と一体である

といったような話なのです





なお、少し難しいことを書くと


【 但し、真如法性(宇宙の真理)から万法が生起した後は

有為〔うい・因と縁によってつくられ

また新たな因と縁が加わればたちまち変化し

つねに変化してやまない現実世界の存在〕の万法と


無為〔むい・因と縁によってつくられない不生不滅の存在〕

の真如法性とは

相即(そうそく・一体不離)の関係にはない 】としているようです




これは、西洋の宗教の基盤にある

霊魂は善で、肉体と物質世界は悪とする

霊肉(れいじく)二元論 と似ていますよね


西洋的な考えです



つまり、禅の「真如隨縁説」とは、基本的には一元論ですが

そこに、二元論の要素を組み込んだものと言えるのです






また、「汎神論」(はんしんろん)というのがあります

「汎」は、ひろくゆきわたる の意味です


これは「全てが神」とか「神が全て」という思想です



但し「全てが神」と「神が全て」では全く違います


「全てが神」と言った場合は

神は、全ての存在を形容する言葉にすぎなくなるので「無神論」


「神が全て」と言った場合は

存在自体の否定となるので「無宇宙論」 とも呼ばれます




大乗仏教の「全ての存在に仏性がある」という考えは

「汎神論」の「無神論」に近いと言えますが


禅の場合は、表面的には「無神論」

究極的には「神が全て」という「無宇宙論」と言えます






これに対して、釈迦の立場は「縁起説」といいます


釈迦の縁起説は、バラモン教のサーンキヤ学派の

「因中有果」(いんちゅううか)と


ヴァイシェーシカ学派の「因中無果」(いんちゅうむか)の

両説に対して立てられたものとされています



当時、バラモン六派(バラモン教の代表的な6つの学派)の

サーンキヤ学派と、ヴァイシェーシカ学派は

それぞれ、因中有果と因中無果の説を立てて

論争していたのです



因中有果とは、麻の実から油が搾れるように

原因の中にすでに結果の性質が存在しているという説です



因中無果は、土という原因が

必ず器という結果になるとは限らないように

原因に結果の性質は存在していない

結果はいくつかの原因が集まって生じているという説です




仏教=因果応報説 と認識されていますが

因果応報説というのは、釈迦のアイデアでなく

インド古来の宗教観なのです


因果応報について、釈迦の時代

バラモン教で因中有果と因中無果で論争をしていたということです



これらに対し、釈迦の因果応報説が「縁起説」です



縁起説とは

原因があって、結果が生じるものの

原因が、直接的に、結果を生むわけではなく

そこに、間接的な因(助因・要因)である「縁」が加わって

はじめて、結果が生じる

という立場です




例えば、花が咲く因は種であり

縁は水、太陽の光、土の養分、花を管理する人などとなります



また、一方通行の道を車で走っていると

向こうから車が逆走してきたので

喧嘩となり、殴られてけがをした とします



けがをした因は、自分の怒りっぽい性格

縁はその道をその時間に車で走った理由とかで


例えば、雨だったので車で通勤したとか

他の道が工事していたからこの道を通ったとか

寝坊して時間がなかったからなどということになります





禅の立場の「真如随縁説」(しんにょずいえんせつ)は

釈迦の考えと一致しているのでしょうか?



そもそも、宇宙の根本原理などわけのわからない存在

形而上学(けいしじょうがく)的な問題に対して

「無記」(説明しない。回答しない)という立場をとるところから

釈迦の立場とは、大きくかけ離れていますよね





釈迦の立場は、自分は他者との関係性によって

生きているという意味においては

生かされて生きていると言えます



「因」のみならず「縁」が加わることで

生起するいうことは「他のものに依存して生起している」

ということになるからです



しかし、宇宙の根本原理や、唯一絶対神などといった

一元論的な原理によって生かされているというものではありません





また、個は存在しないという一元論では

仏教の根本に反することになります


なぜなら、一元論では

個の過去の原因が、個の未来の結果をもたらすという

仏教最大の基本理念である「因果の法則」(因果応報)が

成り立たなくなるからです





まとめると

個は、宇宙という海の波がしらにすぎす

全体によって、はじめて個が存在するというのでなく


それぞれの個が、因となり縁となり、あるいは果となって

全体を形成しているという多元論


これが釈迦の縁起説です




「縁起説」と「真如隨縁説」 ②




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