【 観念の塊 編 】 スピノザの「神即自然」 デカルト(1596~1650)は実体として精神(考える私)と 物質(それを支える何か)をあげ さらにこれらを創造した神を究極の実体としました これに対し デカルトとともに「大陸合理論」の代表である スピノザ(1632~77)は、神のみが唯一絶対の存在、真の実体であり 外のものは神の諸様態だとしています スピノザは「理神論」における権威でもあります 理神論とは、世界は、神によって創造されたが 天地創造以後の世界は、神のプログラミングした 自然の法則に従って自律的に展開していく 世界がどう展開していくかの ≪真理≫は、自然法則の中にある それを読み解く力=「理性」は、人間に具わっている といった考え方です このため、理神論は「自然宗教」や「理性宗教」と呼ばれています 理性宗教と自然宗教って反対のような感じですが キリスト教の世界観では同じなのです また、世界の自己展開には、もはや神は干渉しないという理由から 神の啓示(おつげ)、神の奇跡などといった 神秘的要素、超自然的要素を否定します なかには「神の思し召し」とか「神の救済」とか いったことまで否定したり 真のキリスト教は、自然宗教の再現にほかならないとし 伝統的・歴史的キリスト教は、堕落した存在であると批判する 立場もあったようです 「すべての観念は、白紙(タブラ・ラサ)の心に 経験によって得られる」という有名な言葉を残した イギリスの経験主義の哲学者 ロック(1632~1704)は 理神論の成立に、大きな影響を与えたとされます 但し、ロック自身は、理神論者ではなく 啓示の反合理性は否定しても超合理性は認めていて キリストを救済者ととらえていたといいます 彼は、『キリスト教の合理性理性』(1695)を著して 理性の権威と、聖書の権威が両立することを証明しようと 試みたものの 「救済の条件を不当に低めて、異端者が救われるようにした」 と、とがめを受けたといいます アイルランドの理神論者 ジョン・トーランド 〔1670~ 1722・論争をまきおこす多くの著書のため 迫害され諸国を放浪。貧困のうち死去〕は 『キリスト教は秘蹟的ならず(1696)』を著し キリスト教の本質は、道徳の掟であり 後世の教会が設けた教義は、独断的に改ざんしたものである 信仰が理性に反してはならず キリスト教の教義は理性に反しない と主張し、教会の伝統的な秘儀を厳しく攻撃したといいます なお、理神論は、啓蒙主義をもたらし 啓蒙主義は、フランス革命に思想的影響を与えたとされます 重要な点は、理神論にしろ、啓蒙主義にしろ 神を否定するものではないということです 啓蒙主義とは、18世紀の西ヨーロッパ、とくにフランスで 展開されたキリスト教的世界観や封建的思想を批判し 人間性の解放を目ざす思想です 〔 啓蒙とは、蒙(くら)きを、啓(ひら)く という意味 〕 フランス啓蒙主義の思想家としては モンテスキュー〔1689~1755・『法の精神』において 「三権分立論」を提唱〕 ヴォルテール〔1694~1778年・封建社会や宗教的不寛容など批判 但し、新たな社会理念を提唱したものはない〕 ジャン=ジャック・ルソー〔1712~1778・社会契約論の哲学者 『人間不平等起源論』を著した〕などがいます カント(1724~1804・ ドイツの認識論と道徳論の哲学者)は 実体のない概念は知ることが出来ない として 理神論者の「神の存在証明」は、全て無効であるとします 一方、理論理性(ふつうの理性)では認識されないが 道徳の実践として、実践理性(良心)にとって不可欠なものとして すなわち実践理性の命令を根拠付けるものとして 自由、霊魂の不滅、神という3つの存在が要請されるとしました これは、道徳的に、仮想的な神の存在が必要である というのではなく 実体として、神が存在するという カント流の「神の存在証明」(道徳論的証明)です ドイツ観念論の権威である ヘーゲル(1770~1831)は カントの神の論証を「矛盾の巣」と呼び 理神論的な神は、彼により、絶対精神(宇宙精神)と名を変えて 復活することになります 話をスピノザに戻します スピノザは、神を万物の内在的原因と考え 超越的原因ではないとし、"神即自然"と主張しました 神は唯一無限の実体である 精神界、物質界の全ての事物、事象は、神の諸様態である 神の本性は絶対・無限であり、属性を無限に持つ 我々の精神も身体もそうした 神の属性の1つにすぎない と定義しています 但し、個の本質に、自己保存の衝動(コナトゥス)を認めています その上でこのコナトゥスを乗り越えるには 神による必然性を、理性によって認識し この認識を他者と共有する必要がある と唱え 全ての存在が、神の必然性の中にあることを 理性によって洞察することが、最高の善であり道徳あるとして これを「神への知的愛」と呼んだといいます さらに「神への知的愛」とは 神が、神の一様態である人間を介して 神自身を認識し、愛することである 人間は、この≪神が、神自身を認識し、愛し 満足する行為≫に参与することで 最高の満足を得ることができる と主張したといいます なお、森羅万象を神とし 人間の中にも神が宿っているとするスピノザの考えでは 人間が犯す罪=神が犯した罪 ということになるので、一神教の立場から批判を受けています また、スピノザの思想は キリスト教だけに当てはまるものではない ということも問題にされたようですが 一方、キリスト教の聖書の記述は、普遍宗教の条件から見て 真理を現しているといえるのかという疑問も出たようです スピノザまでいくと、哲学というか神学ですよ 神という言葉に、さらなる世界を積み上げることによって 新たな「神」を創造する そして、その神を根拠に 「存在」 「善」 「道徳」 「幸福」 などといった概念に バーチャル的な定義を与えてしまっているということです そもそも理神論がどういうものか述べると 「神」という言葉のもともとの概念や意味が ≪困ったときに、祈ったり、願ったりすれは助けてくれる存在≫ だったのが いつのまにか 【世界の自己展開には、もはや神は干渉しない なので、神は人間の運命に関与しないし、人間を救済することもない 】 になったという話なのです(笑) 理神論と芸術 パスカルのバーチャル思考 (ひとつ戻る) |
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