緋山酔恭の「価値論」 真理とはなに? 観念の塊の哲学 理神論と芸術



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 観念の塊 編 】




理神論と芸術



スコラ哲学は、中世に、ヨーロッパの教会・修道院に付嘱する

学校、大学の神学部で、行われた学問です

これらの神学者や哲学者が研究した学問です


あらゆる領域にわたるそうですが

やはり中心は、哲学や神学だったといいます


さらにその中心は、キリスト教の教義や神の存在を

理性的に論証することにあったようです


また逆に、理性では神の存在を証明できない

ということの論証がなされたといいます




スコラ哲学においては

超自然的な存在としての

神を認識する能力である「恩寵の光」と


人間に生得的(生まれながら)にもつ

「自然の光」という考えが普及したといいます


「自然の光」とは

自然界の事物を認識する理性に具わる能力だといいます




スコラ哲学最大の哲学者

トマス・アクィナス(1225頃~74・イタリアの神学者

ドミニコ会の修道士)は、およそ以下のように言っています


【 理性による「自然の光」でも、神の存在を認識できる

だが、有限である人間は、無限である神の本質は認識できない


しかし、信仰と愛と希望によって、神から「恩寵の光」を与えられ

それによって、知性が成長し、神をの本質を

おぼろげなから認識することができるようになる


さらに、キリスト者は、死して「栄光の光」を与えられることで

神の本質を完全に認識でき、幸福を得ることができる 】




理神論というのは

神は、超自然的な存在ではないとすることで

「理性」(自然の光)で、神の認識は可能である

としたということです





理神論の「理性」の正体を明かします



我々が、荘厳な山岳風景や

女神のように美しい女性に対し

「神性」や「真理性」を観じるという意味は


【理性】(事実認識能力)によって

内在する「神」や「真理」を把握している


ということではなく


「感受性」や「感情」といった

≪価値判断能力≫が、芸術的対象を前にして

バーチャルな「神」や「真理」を価値として創造している

ということです





いやいや、対象に「神」や「真理」を感じるということは

対象が「神」や「真理」を内在しているということだろ?

という反論もあるでしょう



答えをいいます

対象が内在しているのは、芸術的要素です



芸術的要素にあるのは、真(真理)か偽(虚偽)かではなく

特殊か普遍かなのです



例えば、侘び寂という精神文化が

日本人固有の美意識によるものであるならば


侘び寂は、日本人のみに普遍的であるが

世界的には特殊であり、普遍ではないということです



すなわち、これは

対象のもつ侘び寂という芸術的要素から

(価値としての)「神」や「真理」を創造しうるのは

日本人だけであるということです





心をつき動かされるままに

論理的な判断もせず行動してしまうさまを

衝動的といいますが


芸術的要素の本質は

合理性(論理)でなく、非合理性(衝動性)です



その本質(衝動性)を、言葉(論理)によって

合理的に説明したものが「芸術論」という「論」です




芸術というのは、「論」のように

本質を、論理(合理性)によって、説明するものではありません




芸術とは、言語や論理を用いて

なにか(情景なり、概念なり)を表現することで

衝動性(芸術的要素)を生み出すものと言えます



芸術の言語や論理が

絵画、音楽、物語、詩、書、俳句 といったものや

「道」(茶道や華道)という形式だったりするのです




例えば、≪閑さや岩にしみ入る蝉の声≫は


俳句という言語・論理で、情景を表現することで

衝動性や精神性を生み出しています




つまり、芸術とは

合理性によって、非合理性を生み出し

合理性の中に非合理性を内包させることによって

人間の欲求に応えたものと言えるのではないでしょうか・・・・



≪閑さや岩にしみ入る蝉の声≫という句は

心に「快」をもたらす=心の目的にかなっている のだから

本質は「合理性」ではないのか?


それは、合理性でなく、合目的性(心の目的にかなった性質)です




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