緋山酔恭の「価値論」 存在とはなにか? ゴットロープ・フレーゲの金星と明星



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 真理の真実 編 】


( 価値論 根幹部C )




存在とはなにか? 金星と明星



波は、海の「状態」を表わしています


「状態」というのは

実体(りんご)や、現象(日没)の

その時その時の様子を意味する言葉と言えます



水は、海(太陽の熱により蒸発)➝ 水蒸気➝

雲➝ 雨➝ 川➝ 海➝ というように循環しています



この水循環を1つの現象ととらえると

現象を演じている「水」が実体で

海、雲、雨、 川 は、水のその時その時の状態と言えます



つまり、海、雲、雨、 川 は

水循環という大きな現象の中に現れる

1の現象ととらえることができます



また、波は、海が風によって変化する現象ととらえると

海は、波の「実体」ということになります




また、宇宙的な循環からいくと

水も、酸素原子と水素原子が、あるタイミングにおいて

ある組み合わせをとったときに、現れる現象と言えます



つまり、宇宙的な循環からいうと

原子が実体であり、水もりんごも「現象」であると言えるのです




目にみえるもの=実体で

実体だけが、存在するとか、実在するとかいう

考えが広いですが


あらゆるモノやコトが

見方によって、実体になったり、現象になったりするのです



なので「現象は存在しない」となると

水も、雨も、川も、海も、りんごも存在ではないということになります



つまり、実体も、現象も、人間の認識において

≪存在をどのようにとらえたかの違い≫にすぎないということなのです





一般的には、概念だけあって、実体としてないもの

例えば、神、霊魂、天国などというものもは

存在しないと考えられています



しかし、全てが、ある原子とある原子が

あるタイミングにおいて、ある組み合わせをとったときに

世界に現れる現象とするならば



神、霊魂、天国などといった

バーチャルにすぎないと考えられているものも

存在するはずです



りんごは、地球という現象世界において

神は、心という現象世界において、現れるという違いだけです



こうした違いも、宇宙を主観として考えると

≪この宇宙≫という同じ現象世界でおきる現象として

違いなどないのです




それから、ついでに言うと


フライパンで、肉を炒めてソボロをつくったとします


すると、フライパンの鉄がソボロにまじる

その鉄をソボロと一緒に食べると

鉄が人間の身体の一部になる


つまりフライパンという無生物の一部だった鉄が

生き物の一部になるわけです



生き物といったって原子という物質の集まりなのだから

鉄が生き物そのものになるといっても過言じゃない


同じ鉄が、あるときはフライパンになり

また別のときには、生き物になったり

遺灰になったり、砲弾になったりするんです



そう考えると、我々有機物と、無生物である無機物も

成り立ちは一緒で、差がないのかもしれません




結論をいうと

人間という主観が、言葉によって世界を

区別した結果であるモノやコトが、ある=存在 ということなのです






ドイツの哲学者 ゴットロープ・フレーゲ(1848~1925・数学者)は

ラッセルとともに分析哲学の祖とされる人です


また、アリストテレス以来の最大の論理学者とも称され

とくに≪意味≫と≪意義≫の違いを明らかにしたことで知られています



ちなみに、≪意味≫と≪意義≫の一般的な解釈の違いは

意味は、言葉(例えば、コップ)の内容や定義のことであり

真理に近いです


但し、「この仕事に意味はあるのか?」のように

価値をあらわす場合もあります



意義は、「人生の意義」というように

より、個人的あるいは思想的な価値をあらわす言葉といえます





フレーゲは、「宵の明星」と「明けの明星」は

同じ「意味」(金星)である


≪意味とは「真理」であって誰も変えることができない≫といいます


これに対し「意義」は違うといいます

意義とは「思想」であるといいます




彼の話は、ざっとこんな感じです


「宵の明星は金星である」

「明けの明星は金星である」

どちらの文章も「真」であるとする


すると、A 「宵の明星=明けの明星」が成り立つ

と同時に、B 「宵の明星=宵の明星」も成り立つ



認識的価値(真理値)が明らかに高いのはBであるが

AとBの認識的価値の違いをどう説明したらよいだろうか?



「宵の明星」と「明けの明星」が指し示す対象は

一緒(金星)で、指し示す対象の意味は同じだが


「宵の明星」(夕方に輝く金星)と

「明けの明星」(明け方に輝く金星)とでは意味は違う



これをどう解決したらよいのだろうか?

と考えたのです



そして「意義」という概念を持ち込んで

金星(指し示す対象)=意味=真理

宵の明星、明けの明星=意義=思想

としたのです



彼によると、意義は必然性がなく付けられたもので

意義をもつ言葉(記号)が

いかなる意味(真理)を持つかを探求すること

これが科学なんだそうです



つまり「宵の明星」や「明けの明星」といった意義の

意味を探求し、明らかにすることが科学というわけです



また「宵の明星=宵の明星」は

自分と自分は等しいという自明のことで、真理値が高いのに対し

「宵の明星=明けの明星」は、真理値が低い


真理値の低い「宵の明星=明けの明星」

という文章の意味(真理)を探究し、明らかにすることが科学である

というわけです



なお、フレーゲによると意味も意義は客観的なものといいます


思想(意義)は、物理的なものではないが

人間の主観的なものでもはなく、客観的実在であるそうです





結局、フレーゲのいう「意義」とは

意味(金星)に与えられる 「様態」(意味を含む)ということのようです


彼は、文章も一種の単語、複合的な単語のように考えていたといいます


「鳥海山」という言葉と


「名山と呼ばれるにはいろいろ見地があるが

山容秀麗という資格では、鳥海山は他に落ちない」

(深田久弥「日本百名山」)という文章は


どちらも、意味=真理(鳥海山)を示す

後者も一種の記号、単語、名称であると、前者と同列に考えたということです





しかし、金星が「意味」「真理」であり

宵の明星、明けの明星は「意義」「思想」である

なんていう話はデタラメですよ



言葉は、シニフィアン(記号表現)と

シニフィエ(記号内容)で成り立ちます


シニフィアンとシニフィエは、言語学の用語で


シニフィアンは

「海」という文字や、「umi」という音声としての側面をいいます


シニフィエは

海のイメージや、海という概念、ないしその意味内容 です



「金星」「宵の明星」「明けの明星」

これらは、どれも単語(=言葉)にすぎません



また、「宵の明星」や「明けの明星」という単語が

「金星」」を、形容する言葉であるなら


それらは、金星という言葉に対して

≪美称≫としての機能をもつというだけの話です




例えば、日本の別称に

ヤマト(「倭」・「大倭」・「大和」)があります



古代の日本の異称というか美称には


「豊葦原瑞穂国」〔とよあしはらのみずほのくに・

葦が生い茂り、稲が豊かに実り栄える国〕

というのがあます


類似のものに

豊葦原千五百秋瑞穂国〔とよあしはらのちいほあきのみずほのくに・

千年も万年も稲が実る国の意〕

などがあります



他には「秋津島」(あきづしま・あきつしま)というのもあります

秋津とはトンボのことです


日本列島を「天御虚空豊秋津根別」ともいいます

〔あまつみそらとよあきつねわけ・空に群れ飛ぶ蜻蛉の男子の意〕



多くの島からなる島国の美称としては

「大八洲国」

〔おおやしまのくに・大八洲は、淡路島、四国、隠岐、九州

壱岐、対馬、佐渡、本州。またはたくさんの島の意〕

があります



さらに「大倭日高見国」

〔おおやまとひたかみのくに・太陽が高く輝く国の意〕などがあります




「日本」や「ヤマト」(大和・倭)が、真理であって

「豊葦原瑞穂国」 「秋津島」 「大八洲国」

「大八洲国」は、思想というのではなく

どれも「単語」(文字と音声+概念をもつもの)にすぎません


このうち、豊葦原瑞穂国、秋津島、大八洲国などは

「日本」や「ヤマト」の美称でもあるというだけのことです





私の子供時分には

「金星」と「明星」という寝台特急が運行されていました


当時、鉄道ファンだったので

よく上野駅や東京駅に、特急列車や

ブルートレインの写真を撮りにいったものです


しかし「金星」と「明星」は

関西から九州の間を走っていたので撮影することができず

憧れの列車であったのです


〔 調べてみると、金星は、名古屋~博多

明星は、新大阪~熊本など を走っていたようです 〕



 
 転 写    転 写



 
 転 写    転 写





ちなみに余談ですが、なぜ金星が

夕方と明け方しか見ることができないのか?

というと


金星は、地球よりも太陽の近くを回っているので


地球が、金星を見ることができる位置にあるとき

地球は、昼間にあたるからです 


(夜は、地球は、金星が見える位置にはいない)


昼間だって空に星はあるけれど、太陽の明るさで見えませんよね



 
 
この図(転写)から

 金星は明け方と夕方にしか見ることが

できないことが分かる  





話を戻します


この特急の話が、なにを意味するかと言うと

「金星」という単語だって

星という言葉を形容する言葉して用いられることがある

ということです



「金星」と「明星」とでは

星を形容する美称としての価値に、差がないということです



フレーゲのデタラメな理屈から言ったら

「星」が真理(意味)で、「金星」は思想(意義)

「星」は誰も変化させられないが、「金星」という言葉は変化させられる

ということになります



さらに言うと「星」という単語だって

「希望の星」というように

将来が大きく開けていて希望に満ちている人を

形容するのに用いたりしますよね


お先真っ暗な人を形容するのに用いません(笑)





「金星」 「明けの明星」 「宵の明星」どれも本質的には同じです

「便所」 「トイレ」 「化粧室」が同じなのと一緒です



≪便所≫という言葉が、使っているうちに

汚いイメージ(=世界)をもつに至ったので

代わりに「お手洗い」や「トイレ」という言葉を使うようになった



さらにそれさえ、女性は

人前で口にするのが恥ずかしいということから

代わりに「化粧室」という言葉を使うようになった



こうした事実から一目瞭然です



「便所」 「トイレ」 「化粧室」の違いは

そのもの自体の意味・概念(真理値)に

積み上げられた言葉の世界の違いです


言葉のバーチャルな世界の違いなのです


世界の違いをフレーゲ的にいうと

思想の違いということです



そして、あらゆるモノやコトは、我々の関心値=価値 において

世界を与えられて「存在」として「存在している」のです



重要な点は「便所」という言葉のもつ概念だけが

もともとの概念ではないということです


便所だって、そのもの自体の意味・概念に

「汚い」という世界(概念)がのっかっている

ということであり、トイレや化粧室と一緒です



つまり、我々の世界に

便所と、トイレと、化粧室が存在しているということなのです


我々の世界に

金星と、明けの明星と、宵の明星が存在しているということなのです




結論をいうと

言葉の世界とは、フレーゲのいうような

≪人間の主観的なものでもはなく、客観的実在≫ではなく


人類が言葉というものを手にしたとき

人の生きる世界は、言葉で組み立てられた世界

バーチャルな世界となっているのです






現象主義の間違えも書いておきます


「このケーキ美味しい」→

幻想かもしれない 夢や空想と同じで

脳の中だけの出来事かもしれない→

ケーキの実在性は証明ではない


これが、現象主義や現象学です



現象主義というのは

ヒュームの因果の否定、ラッセルの時間の否定

デリダの真理の否定と一緒です


人間の認識において「真理」とされているコトを疑っているのです


現象主義の場合、「外界」(客観)の存在を疑っている

という違いにすぎません




しかし、人間の認識おいて、あるいは

人間の思考においての「決め事」というのは


そもそもが≪絶対≫ではなく

≪最大公約数的≫でしかないということです


平行線でないものが平行線なのです




人間の主観というのは

≪ある人には、風は温かく感じられ

別の人には冷たく感じられる

「風そのものは、温かいのか冷たいのか」

という問いには答えがない≫というものです



しかし、それでは、世界がわけがわからないので

「平行線でないものを平行線」と認めて

「最大公約数的な真理」を認めて、我々は生活しているのです




≪最大公約数的な真理≫とはなんですか?


【大多数の五感と認識によって保証された真理】ということです




結局、ヒューム、マッハ、フッサール、ラッセル

ウィトゲンシュタイン、デリダ などの屁理屈屋の哲学とは


「平行線ではないものを平行線とするのは間違えである」

と言っているのにすぎないということなのです




もちろん、ご飯を食べていくため

また学者として認められたいがために言っているだけで

本人自身、自分がデタラメを言っていることぐらい

百も承知だったでしょう




≪観念の塊の哲学≫とは、自分の都合(=価値)において語られる

観念=個人的な主観 を【真理】と偽るのに対し


≪ 屁理屈の哲学≫というのは、人間という主観において

【真理】とされた仮の定義に対して、難癖をつけるといったものです




私(緋山)の哲学は、そうではありませんよ



【 特殊相対性理論は

≪速く進むものの時間が遅くなる≫

という話であるのにも関わらず


宇宙船そのものの動きや変化

は遅くなりません


それどころか

宇宙船の中にいるBさんの動きも遅くなりません

(=Bさんも宇宙船と同じ速度で進む)



遅くなるのは

時計の針の進み方や、老化なんかです



勉強するという行為に関しては

老化とは、真逆で

時間が増えることでたくさんできてしまう

なんていう話がなされています



これだけでも時間の概念というか観念が

支離滅裂、デタラメなのは、明々白々ですが



さらに、一般相対性理論では

重力が強いほど時間が遅れることから


宇宙船が、ブラックホールに近づいていくに従い

宇宙船の動きがゆっくりになっていてき


ブラックホール近くでは

宇宙船はほとんど止まっているように観測される

なんて語られています




特殊相対性理論では

宇宙船やBさんなどといった物体が進むことは

時間としてとらえず


一般相対性理論では

宇宙船という物体が進むことを

時間の象徴としているということです




では、あなたたち学者先生方は

「時間」をどのように定義し


どのような「時間」の概念を

前提として、モノを語られているのでしょうか?

という話になりますよ(笑) 】


ということです




すなわち、平行線を、平行線ではなく

丸とか三角という人たちのデタラメな真理に対して


平行線とはどのようなものであるのかを明らかにし

示していく といった哲学なのです





そして、価値論の最終的な結論は

エルンスト・マッハの科学哲学 ですでに書いたように


創価学会の新聞を毎日新聞が印刷している世の中

言論の自由なんて「嘘」の世の中…



肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり

飢餓が増えることを知りつつも毎日、肉を食べ

多くの人を殺している私たち…


これは、家畜を食べているというのではなく

我々先進諸国の人間が肉食獣として

草食獣の発展途上国の人間を食べているのと同じです



それにコンビニのお弁当を食べるたびに

分解しにくいプラスチックを廃棄し

地球すら破壊しようとしている私たち・・・

全てのことが「お金」の世の中…



そんな上に私たちは

「人権」だとか「尊厳」だとか「正義」だとかいった

バーチャルな世界、言葉の世界をつくり上げ

その上にのっかって生活しているのです


つまりゲームの世界だけでなく

現実と信じている私たちの世界そのものがバーチャル

仮想現実の上にのっかった現実なのです


ということです




第一章 価値とはなに?

【 経済学の価値 編 】

経済学の価値




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