【 真理の真実 編 】 ( 価値論 根幹部C ) 真理の真実 人間なら人間、猫なら猫 コウモリならコウモリ、カエルならカエル バッタならバッタ、サクラならサクラ それぞれに認識能力の違いがあります 人間世界は 人間の認識能力にあわせて形づくられ存在しています つまり、根本的には、世界は一つであっても 人間は、人間の認識能力によってしか世界を把握できないし バッタは、バッタの認識能力によってしか世界を把握できません 人間は、人間の認識能力によってしかモノやコトを把握できないし バッタは、バッタの認識能力によってしかモノやコトを把握できません すなわち、客体としてのモノやコトは 1つであっても 人間なら人間、猫なら猫 コウモリならコウモリ、カエルならカエル バッタならバッタ、サクラならサクラ におていの客体があり 他の存在が、経験する「客体」を、経験することは不可能です 他の存在が、経験する「モノやコト」を、経験することは不可能です しかし、客体は1つなのです そこで、この根本的な客体を 「真実の客体」と呼ぶことにしましょう 仮に「全能の神」がいて ≪真実の客体≫を認識していたとしましょう しかし「真実の客体」「神の客体」は 我々には、認識できないのです とはいえ、仮に「全能の神」がいて ≪真実の客体≫を認識していたとしても 人間なら人間、猫なら猫 コウモリならコウモリ、カエルならカエル バッタならバッタ、サクラならサクラ、神なら神 それぞれの認識能力にあわせて 世界が形づくられ存在している という事実に変わりないのです そうなると、神を含めて、どの存在の「客体」が 正しい=真理 というものではありません 逆にいうと、それぞれの主観の認識を 「真理」とするしかないのです それから、≪真実の客体≫ ≪神の客体≫が 神一人しか認識できないものであるとしたら その認識に、普遍性も、客観性も「ない」ということになります つまり、≪真実の客体≫というのは、それこそ「主観」であって 「真理」ではない という話にもなります(笑) また、それぞれの主観は 神の認識する≪真実の客体≫ ≪神の客体≫を それぞれの認識において、つねに、知覚でき、経験できているのです すなわち、我々の知覚判断、認識判断というのは つねに、「真実の客体」「神の客体」に対する 知覚であり、認識であることに、 他ならないのです つねに、「真実の客体」「神の客体」を 知ろうとする努力なのです カントの「認識論」というのは 【 私たちが認識しているのは 対象そのものではなく 主体が、構成した表象(知覚したイメージ)にすぎない 】 ということですが そうではなく、認識とは 主体(人間だのカエルだのバッタだの)が ≪対象そのもの≫を 主体の認識能力によって構成した結果です 我々の認識とは 「真実の客体」「神の客体」に、出会うことで始まり 我々の認識能力にあわせて形づくられた 客体を「真実」や「事実」とし それに対する価値判断の結果として 感情、理性、意志などといった「心」が生じているのです 存在とはなにか? 金星と明星 分析命題と総合命題について (ひとつ戻る) |
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