緋山酔恭の「価値論」 価値とはなにか? 真理とはなにか? 真理の真実



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 真理の真実 編 】


( 価値論 根幹部C )




真理の真実



人間なら人間、猫なら猫

コウモリならコウモリ、カエルならカエル

バッタならバッタ、サクラならサクラ


それぞれに認識能力の違いがあります



人間世界は

人間の認識能力にあわせて形づくられ存在しています




つまり、根本的には、世界は一つであっても


人間は、人間の認識能力によってしか世界を把握できないし

バッタは、バッタの認識能力によってしか世界を把握できません



人間は、人間の認識能力によってしかモノやコトを把握できないし

バッタは、バッタの認識能力によってしかモノやコトを把握できません





すなわち、客体としてのモノやコトは

1つであっても


人間なら人間、猫なら猫

コウモリならコウモリ、カエルならカエル

バッタならバッタ、サクラならサクラ におていの客体があり



他の存在が、経験する「客体」を、経験することは不可能です

他の存在が、経験する「モノやコト」を、経験することは不可能です





しかし、客体は1つなのです


そこで、この根本的な客体を

「真実の客体」と呼ぶことにしましょう




仮に「全能の神」がいて

≪真実の客体≫を認識していたとしましょう



しかし「真実の客体」「神の客体」は

我々には、認識できないのです




とはいえ、仮に「全能の神」がいて

≪真実の客体≫を認識していたとしても


人間なら人間、猫なら猫

コウモリならコウモリ、カエルならカエル

バッタならバッタ、サクラならサクラ、神なら神


それぞれの認識能力にあわせて

世界が形づくられ存在している という事実に変わりないのです




そうなると、神を含めて、どの存在の「客体」が

正しい=真理 というものではありません


逆にいうと、それぞれの主観の認識を

「真理」とするしかないのです




それから、≪真実の客体≫ ≪神の客体≫が

神一人しか認識できないものであるとしたら

その認識に、普遍性も、客観性も「ない」ということになります


つまり、≪真実の客体≫というのは、それこそ「主観」であって

「真理」ではない という話にもなります(笑)





また、それぞれの主観は

神の認識する≪真実の客体≫ ≪神の客体≫を

それぞれの認識において、つねに、知覚でき、経験できているのです



すなわち、我々の知覚判断、認識判断というのは

つねに、「真実の客体」「神の客体」に対する

知覚であり、認識であることに、 他ならないのです



つねに、「真実の客体」「神の客体」を

知ろうとする努力なのです





カントの「認識論」というのは


【 私たちが認識しているのは

対象そのものではなく

主体が、構成した表象(知覚したイメージ)にすぎない 】


ということですが



そうではなく、認識とは

主体(人間だのカエルだのバッタだの)が


≪対象そのもの≫を

主体の認識能力によって構成した結果です




我々の認識とは

「真実の客体」「神の客体」に、出会うことで始まり



我々の認識能力にあわせて形づくられた

客体を「真実」や「事実」とし



それに対する価値判断の結果として

感情、理性、意志などといった「心」が生じているのです




存在とはなにか? 金星と明星




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