【 数学・物理学 編 】 自然科学の証明と数学の証明 数学というのは、自然科学(物理学、化学、天文学など) とは違い、数学自身が研究対象の学問です それゆえ証明された数式は 査読(専門家による検証)ミスがない限りは 数学上では、絶対に「正しい」のです ここも、知り合いのアルゴリズムの教授から お聞きしたことのまとめです 物理学というのは仮説立てて、それによる帰結を導き (ここまでは数学の話) 帰結が実際に観測されるかを確かめて、確認されたら採用されます 数学的に書くと、p が仮説 q1, q2, ..., qn が帰結だとすると p ならば q1, p ならば q2 ..., p ならば qn が、全て数学的に証明されていて さらに、q1, q2, ..., qn が 全て実験的に観測された状況になれば p が正しいとして採用されます #一般に n が小さいときには、p は仮説として保留されます ぶっちゃけた言い方をすると 状況証拠を積み重ねて正しさを示します 但し、p が厳密に正しいと証明されたわけではありません 正しいと信じるに値する という言い方が正しいと思います このような証明の仕方を「帰納証明」と言いますが 自然科学における正しさは、全て帰納証明に基づいています ですから、自然科学において「絶対に正しい」という言葉は嘘です 状況証拠でしかない以上、絶対的な正しさは証明できないのです これが自然科学の限界とも言えます 昔、「原子力発電所は絶対に安全」と言っていた人は 完全に詐欺師です 帰納証明に絶対はありません ここが数学との最大の違いです 数学の証明はすべて演繹(えんえき)証明です 但し、証明の正しさを検証するのは人間なので 検証を誤る可能性は否定できません その意味では数学も絶対ではありません 【 帰納法は、りんご、バナナ、みかん、イチゴといった特殊から ≪果実≫という普遍を導き出していくといったものです 演繹法は、結論をおしひろげて説明します ≪果物≫という概念を認めるならば りんごも果実、バナナも果実、みかんも果実 イチゴも果実 というように 普遍を、特殊にあてはめていくものです 帰納法とは、A社製のテレビが壊れた デジカメが壊れた パソコンが壊れた だから「A社製は全て壊れやすい」 というような結論のみちびき方をいいます これに対し演繹法は、前提を認めるなら 結論もまた必然的に認めざるを得ないという推理方式です A社の製品は全て壊れやすい だから「A社製のプリンタは壊れやすい」というのが演繹法です 「我思う(前提)、ゆえに我あり(結果)も演繹法です 演繹法と帰納法は、科学的にものごとを考える方法として 現在の科学や数学にも大いに取り入れられています 帰納法の欠点は、統計論を前提とするので 新たな事実が1つでも加われば、結論が簡単に崩れてしまうこと カーナビが壊れにくいということになれば 「A社製は全て壊れやすい」という結論は崩れてしまうわけです 演繹法の場合、大前提・小前提・結論の 三段論法が代表的なものです 例えば、大前提で「生きとし生けるものは全て死ぬ」 小前提で「人間は生き物である」とすると 結論は「すべての人間は死ぬ」となります つまり前提を認めるなら、結果も認めざるを得ないという論法です この演繹法の欠点は、前提に誤りや偏見があれば 結論は間違ったものになることです 演繹法の「三段論法」は 前提条件 A=B B=C → 結論 A=C です 演繹法は、A=B B=C という法則(公理)から A=C という新たな法則を、導き出していくわけです 演繹法は、前提条件が正しければ 導き出される結論も必ず正しくなります これは、演繹法は 前提条件 A=B B=C を A=C に、言い換えているだけだからです 】 紛らわしいのは「数学的帰納法」で 「帰納法」と銘打っていながら「演繹法」です 数学における演繹法というのを1つあげておきましょう 例えば、素数(1より大きい自然数で 正の約数が 1と自分自身のみの数)が 無限に存在することを証明してみます 命題: 素数は無限に存在する (素数の集合の濃度は有限ではない) 仮定: 素数が有限個しかないと仮定する この証明方法は「背理法」と言いいます 背理法は、命題(定理)が成り立たない仮定をもうけます 命題: バッタは昆虫である 仮定: バッタは昆虫でないと仮定する そして「バッタは昆虫でない」という仮定の矛盾をみつけて 「バッタは昆虫である」という結論を導きます ≪素数が有限個しかない≫と仮定すると 全ての素数を列挙することができます 全ての素数を q1, q2, ..., qk とおきます k は素数の個数です p = q1 ×q2 ×… ×qk + 1 とおくと p は、どの素数 qi で割っても余りが 1 となり割り切れません 素数でない数(合成数)は、他の数で割り切れます だから、ある素数でも割り切れます なので、どの素数でも割り切れず、余りが1となる pは、素数と言うことになります 例えば、素数が 2, 3, 5, 7 しかなかったとします もちろん、実際には 11, 13, 17, 19, ... と続くのですが あくまで仮定です (なお、これを間違いだと証明しようとしている) そのときに、2 × 3 × 5 × 7 + 1 = 211 という数を考えてみます ・ 211 ÷ 2 = 105 … 余り1 ・ 211 ÷ 3 = 70 … 余り1 ・211 ÷ 5 = 42 … 余り1 ・ 211 ÷ 7 = 30 … 余り1 となって、どの素数で割っても割り切れません すなわち、211 は素数と言うことになります # これが p の正体です 2, 3, 5, 7 しか素数がなかったと仮定すると 211 という新しい素数が発見されてしまうのでおかしい 素数が 2, 3, 5, 7 しかないと仮定したことが矛盾である ということになります 証明の中で何をしたかというと 前提: q1, q2, ..., qk は全ての素数である 小定理: q1, q2, ..., qk は全ての素数である ⇒ p = q1 × … × qk + 1 も素数である から 結論: p は素数である を三段論法で導いたわけです そして、そもそも q1, …, qk が素数の全て と言っているので 他に素数があるという結論はおかしい 小定理に嘘はないので、前提が間違である というようにして証明を行っています 今は4個だけでお話ししましたが 100個の素数が全てだと仮定しても 1億個の素数が全てだと仮定しても 今と全く同じ矛盾を生じてしまうということになります 帰納法は、仮説 p に対して ・ p ならば q1 ・ p ならば q2 … ・ p ならば qk を示すことで 予想される結論を導いて 実験的に q1, q2, ..., qk が正しいことを観測することで p も正しい(だろう)と証明する方法です 一方、数学的帰納法は何かというと 証明したいことがら P(n) があったときに まず、(0) より P(1) が成り立つことを証明し 次に以下の全てを証明することで P(n) を証明する方法です 1、 P(1) ならば P(2) 2、 P(2) ならば P(3) 3、 P(3) ならば P(4) … (以下、無限に続く) で、P(1) ならば P(2) とか、P(2) ならば P(3)、… の部分が帰納法に似ているので 「数学的帰納法」と呼ぶのですが 実際に行っているのは三段論法です ・ (0) より P(1) が成り立つ ・ P(1) と (1) より P(2) が成り立つ(三段論法) ・ P(2) と (2) より P(3) が成り立つ(三段論法) … ということで 数学的帰納法は、三段論法の繰り返しで演繹法です (紛らわしい 苦笑) で、証明を形式的に書くと (1) Pが成立しないと仮定 (これを ¬P と書きます) (2) ¬P ならば Q を証明 (3) ¬P ならば ¬Q を証明 (4) Q と ¬ Q は矛盾しているので (1)がおかしい すなわち P が成立する 今回(素数が無限にある)の例では ・ P=素数は無限に存在する (¬P=素数は有限個しか存在しない) ・ Q=Pは(有限個の素数とは別の)素数である (¬Q=pは素数ではない) です 論理的に追っていくと (1) と (2) から Q が得られて(三段論法) (1) と (3) から ¬Q が得られて(三段論法) 最後に (4) にたどり着いています (注) 今回の例では (3) は明らかなので明示していません (1) ~ (4) によって P を証明する手法が背理法で 数学ではよくつかわれます 見ての通り、背理法は三段論法を駆使して 証明を行っているのが分かるかと思います また、この枠組みそのもの (要するに背理法そのもの)が正しいことも 数理論理学を用いて証明されています # ちなみに、数理論理学は情報工学科で必修の科目です というのも、人工知能などで応用があるからです こんなふうに数学は証明手法の正しさまで含めて証明されていて そういう正しい手法のみを用いて論理を展開しています これが演繹法というやつです 完全数について 現代数学とは? (ひとつ戻る) |
|