緋山酔恭の「価値論」真理とはなに? 「性起説」と「性具説」



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 釈迦と禅と天台 編 】




「性起説」と「性具説」



それから、華厳宗や禅宗では「仏性」を全く清浄なものとし

煩悩は一時的に付着した塵(ちり)のようなもの

「客塵煩悩」(きゃくじんぼんのう)であると説きます



なので、煩悩を完全に滅して

はじめて仏になるという立場をとるのです


しかしこれでは人間は永遠に仏などなれないですよね(笑)



煩悩を完全に消滅させることなど不可能です


煩悩を完全に滅却した仏というのでは

神のような存在、おとぎ話の世界の仏となってします




これに対し中国天台宗の祖 智顗(ちぎ・538~598)は

法華経の「諸法実相」(しょほうじっそう)の文から

「十界互具」(じっかいごぐ・十界それぞれにまた十界が具していること)

という理論を打ち出します




大乗仏教では、自己に内在する10種の生命が説かれます


低い方から6つは

地獄(苦しみ、怒りの最低な命) 餓鬼(むさぼり) 畜生(おろか)

修羅(嫉妬・傲慢) 人(平らかな気持ちを持てる命) 天(喜びの命) です



一般の衆生(人間)はふだんは

この6つの命が

環境にふれて(縁にふれて)現れ消え、現れ消えしているといいます


これが≪六道輪廻≫です



このように、縁にふれて色々な命が現れ消えしていますが

もどる場所に違いがあります


ふだんあるところの命が、その人の「境涯」ということです




そして仏教とはつまるところ

六道輪廻、つまり「縁(環境)にふりまわされている自己」から

「主体的な自己」を目指す教えと言えるでしょう



主体的な自己とは

声聞(しょうもん・仏教を学び無常すなわち空を悟った境涯)

縁覚(えんがく・仏教以外、たとえば自然界などから空を悟った境涯)

菩薩(利他の境涯・菩薩とは、利他=大乗を修行して仏を目指す人)

仏(智慧と慈悲の最高の境涯) です





あくまで、十界論というのは

大乗仏教の立場からのものなので

小乗教の聖者である「声聞」と

声聞と同列の仏教以外の聖者の「縁覚」とが

「菩薩」の下に置かれています



小乗教とは、欲望とストレスの世俗社会を嫌い

世俗を離れ、比丘の250戒、比丘尼の350戒などという

厳しい戒律を守り

複雑な教理の研究を通して、自己の完成を目指す仏教です



こうした小乗教のあり方に対し

「自分だけの悟りを目指す低い教えである」

として、釈迦の滅後500年くらいして誕生したのが、大乗仏教です



東南アジアに伝わった仏教が、小乗教で

中国、韓国、日本へ伝わった仏教が、大乗教です


日本の伝統仏教は、すべて大乗仏教です





天台大師 智顗の「十界互具」とは

地獄界から菩薩界までの九界の衆生、九界の境涯の者に

仏界の生命=仏性 が具している(内在している)

というのと同様に


仏界の境涯の者にも

他の九界(煩悩)の生命が具(そな)わっているという考えです



つまり、天台のいう「仏」とは

煩悩を断滅した人などというものではなく

自己に内在する「煩悩」や「悪の心」と常に闘争している人

ということになります




また、十界互具が説かれたことにより

正義のための怒りは

仏界や菩薩界に具するところの地獄界の生命


あくなき真理の追究は

声聞界や縁覚界に具するところの餓鬼界の生命


人を自分の手段とすることに喜びを感じている生命状態は

畜生界や修羅界に具するところ天界の生命


というように、縁にふれて

一瞬一瞬、あらわれてくる生命に対しても

より明確に説明できるようになったと言えます




天台の「十界互具」を「性具説」(しょうぐせつ)といいますが

禅や華厳の立場からは「性悪説」(しょうあくせつ)と呼ばれます



一方、禅や華厳の真如隨縁説を「性起説」といい

天台の「性具説」と対比的に語られます





釈迦は、原始仏典において


"九つの孔 (あな)からは、つねに不浄物が流れ出る

眼からは目やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁

口からはあるときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く

全身からは汗と垢とを排泄する

またその頭 (頭蓋骨)は空洞であり、脳髄に充ちている

しかるに愚か者は無明 (むみょう)に誘われて

身体を清らかなものだと思いなす

また身体が死んで臥 (ふ)すときには

膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族も顧みない"



"人間のこの身体は、不浄で、悪臭を放ち

花や香を以 (もっ)てまもられている

種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出ている

このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い

また他人を軽蔑するならば

かれは見る視力が無いという以外の何だろう"


(NHKブックス中村元・田辺祥二著「ブッダの人と思想」より)


と述べていますが、十界互具は

釈迦(仏)のあり方を理論化したものとしても

矛盾がないと言えます





一方、禅宗では

「平常心是道」〔びょう(へい)じょうしんぜどう〕

【 あたりまえの心がそのまま仏の道 という意味

心そのものが仏であり、小さな心の動き、指や目の動き

日常の全てがみな仏性のあらわれに他ならない

すなわち悟りは人を超越したものでなく

人間性に由来するものであるということ 】

なんて言いますが


人間の本性そのものに、超越性をもたせているのです



煩悩を完全に滅却した心

なんてそもそもありえませから

坐禅による「見性成仏」といっても、有名無実でしかない

バーチャル的なゲームにすぎない ということです





【 真如法性(宇宙の真理)から万法が生起した後は

有為〔うい・因と縁によってつくられ

また新たな因と縁が加わればたちまち変化し

つねに変化してやまない現実世界の存在〕の万法と


無為〔むい・因と縁によってつくられない不生不滅の存在〕

の真如法性とは

相即(そうそく・一体不離)の関係にはない 】と、前述しました



禅では、有為の万法は、無明によって

生起するというわけですが


この万法(現象世界)が、九界(煩悩)

無為の真如法性(宇宙の根本原理)が、仏界 にあたり


両者は、一体不離ではないということです




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