【 釈迦と禅と天台 編 】 禅の「分別するな」は間違え 禅宗では、【大きなとか、石とかいう言葉は 人間が分別によりあとから創造したものであって 大きなとか、石とかいう以前に 世界に2つとないいのちそのものとしてここにある 大きな石と小さな石、男と女、自分と他人、是と非 善と悪、正と邪、苦と楽、深い教えと浅い教え・・・ このような見方は、相対的な価値判断であり 人間が勝手に分別を起こして対象を見ているのであり 人間の創出したはからいであり いのちの本質を見ていない迷いである 】と教えます この話の間違えも書いておきます 綾瀬はるかさんに「快」を生じるとき あなたは、どのような存在を観ていますか? 具体的な名前があった方がイメージできると思います 私は、テレビを見ない(そもそも家に置かない)ので 若い女優さんといっても、綾瀬はるかさんくらいしか分からないので 彼女にしました 「物質」としての存在ですか? 「生物」としての存在ですか? 「人間」としての存在ですか? 「女」としての存在ですか? 「女優」としての存在ですか? そうではありませんよね 「綾瀬はるか」の「綾瀬はるか」としての本質を観て 「快」を感じているのです 「綾瀬はるか」の「綾瀬はるか」としての 世界に2つとないいのちそのものを観て、「快」を感じているのです すなわち、物質➝生物➝人間➝女➝女優➝本質 と分別していくことこそが 世界に2つとないいのちそのものを観ていくことに、他ならないのです それから、我々が、世界に2つとない存在を 「石」とか「大きな石」とか言うのは なにも、固有性を無視しているわけではありません 陳那〔じんな・ディグナーガ。480~540頃 インド大乗仏教2大教派 唯識派の大成者〕は 共通性である「共相」〔ぐうそう・共通する特徴や性質 青いものに共通する青性、りんご・バナナ・みかんに共通する果実性 全ての事物にみられる無常性など。共相は非存在のものである〕は 比量(推理知)によって認識され 事物の固有の特徴や性質である「自相」は 概念によらず直接実在を認識する現量により認識される 共相のみが言語による伝達が可能で 言語の使用は指示されるもの以外のものを 排除することで成り立っている と考えました つまり、綾瀬はるかさんのことを他人に伝えるには 美人で、清楚で、スレンダーで、猫顔よりは犬顔で・・・と ≪共通性≫を重ねていくしかないということです 我々は言葉に表現できないコトまで 認識しているわけですから 綾瀬はるかの容姿を知らない人に 言葉だけで「綾瀬はるか」をいくら説明しても およそのことしか伝わらないということになります 「性起説」と「性具説」 釈迦の悟りと道元の悟り (ひとつ戻る) |
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