緋山酔恭の「価値論」真理とはなに? 禅の「分別するな」は間違え



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 釈迦と禅と天台 編 】




禅の「分別するな」は間違え



禅宗では、【大きなとか、石とかいう言葉は

人間が分別によりあとから創造したものであって

大きなとか、石とかいう以前に

世界に2つとないいのちそのものとしてここにある


大きな石と小さな石、男と女、自分と他人、是と非

善と悪、正と邪、苦と楽、深い教えと浅い教え・・・



このような見方は、相対的な価値判断であり

人間が勝手に分別を起こして対象を見ているのであり

人間の創出したはからいであり

いのちの本質を見ていない迷いである 】と教えます



この話の間違えも書いておきます




綾瀬はるかさんに「快」を生じるとき

あなたは、どのような存在を観ていますか?


具体的な名前があった方がイメージできると思います


私は、テレビを見ない(そもそも家に置かない)ので

若い女優さんといっても、綾瀬はるかさんくらいしか分からないので

彼女にしました



「物質」としての存在ですか?  「生物」としての存在ですか?

「人間」としての存在ですか?  「女」としての存在ですか?

「女優」としての存在ですか?


そうではありませんよね



「綾瀬はるか」の「綾瀬はるか」としての本質を観て

「快」を感じているのです


「綾瀬はるか」の「綾瀬はるか」としての

世界に2つとないいのちそのものを観て、「快」を感じているのです



すなわち、物質➝生物➝人間➝女➝女優➝本質

と分別していくことこそが

世界に2つとないいのちそのものを観ていくことに、他ならないのです





それから、我々が、世界に2つとない存在を

「石」とか「大きな石」とか言うのは

なにも、固有性を無視しているわけではありません




陳那〔じんな・ディグナーガ。480~540頃

インド大乗仏教2大教派 唯識派の大成者〕は


共通性である「共相」〔ぐうそう・共通する特徴や性質

青いものに共通する青性、りんご・バナナ・みかんに共通する果実性

全ての事物にみられる無常性など。共相は非存在のものである〕は

比量(推理知)によって認識され


事物の固有の特徴や性質である「自相」は

概念によらず直接実在を認識する現量により認識される


共相のみが言語による伝達が可能で

言語の使用は指示されるもの以外のものを

排除することで成り立っている


と考えました




つまり、綾瀬はるかさんのことを他人に伝えるには

美人で、清楚で、スレンダーで、猫顔よりは犬顔で・・・と

≪共通性≫を重ねていくしかないということです




我々は言葉に表現できないコトまで

認識しているわけですから


綾瀬はるかの容姿を知らない人に

言葉だけで「綾瀬はるか」をいくら説明しても

およそのことしか伝わらないということになります




「性起説」と「性具説」




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