緋山酔恭の「価値論」 価値とはなに? 真理とはなに? パルメニデスの「ある」②



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 パルメニデス 編 】




パルメニデスの「ある」 ②



パルメニデス理論について付け加えておきましょう


彼に言わせれば


【 「一」「ある」がないというならば

万物は「無」「ない」によって創造されたのですか?


「無」「ない」から創造されるわけないですよね



ビッグバン宇宙論では

この宇宙は、原子より小さな点が

大爆発してできたとされていますが


では、その原子より小さな点は

どのようにして生成されたのですか? 】


ということなのです



そこで「エネルギーによって生成されたのでは?」と答えると

「では、エネルギーはどのようにして生成されたのですか?」

と、返されるわけです



つまり、宇宙の形とか、宇宙の端っことか

宇宙の終わり などといった形而上学的問題の一つである

万物=宇宙の始まり についての解答なのです






これに対し、釈迦の場合

こうした10個の形而上学的な論題に対して

「無記」すなわち無回答の立場をとっています

これが有名な「釈迦の無記説」です



① 世界は時間的に常住(永遠)か無常かの2項目

② 世界は空間的に有限か無限かの2項目

③ 霊魂と身体は一つであるか別なのかの2項目

④ 人間(仏とも)は死後、存在するかしないか

存在しかつ非存在であるのか

存在せず非存在でもないのかの4項目




なので、パルメニデスやプラトンの立場からすると

釈迦は、感覚でしか世界(真理)を判断できなかった人

ということになります




パルメニデスに質問をぶつけてみましょう


パルメニデスさん

「一」なり「ある」なりは、誰によって創造されたのですか? →


パルメニデス

「一」は、もともと「ある」のであって

創造されたのではない →


どうしてそう言い切れるのですか? →


パルメニデス

もともとなければ、世界は「無」「ない」から

創造されたことになるからだ →


それこそ、≪人間の感覚・認識において≫ですよね


という話になります(笑)






宗教の信者に、教義的な矛盾を指摘していくと

反論できなくなった彼らは、必ずといっていいくらい

最後に「理屈ではありません 私たちには体験があるのです」

と返してきます


体験による「確信」があるというわけです




パルメニデスは、≪真理≫に迫るには

「感覚」を頼りにすべきではなく

「理性」によって【論理的】に考えるべきだと主張した

とされていますが


彼のいう「理性」というのは

宗教でいうところの「霊魂」とか「魂」(たましい)にすぎず


彼のいう「論理」とは

論理とは逆の宗教的な「体験」にすぎませんよ(笑)




イタリア・ルネサンス期の新プラトン主義の中心者

マルシリオ・フィチーノ(1433~99。イタリアの哲学者)は

【 人間は、動物と違い理性と知性を持つ

理性は、五感から受け取った情報を分析、判断し、想像力を働かせる能力

知性は、直接、イデア(真理)に到達し、神の領域に近づく能力 】

としたようです



フィチーノの「知性」も、パルメニデスの「理性」と一緒です




釈迦当時のバラモン教では

自己の本質であるアートマン(我・霊魂)が

宇宙の最高原理であるブラフマン(梵)と、本来 同一であると悟り


これにより梵と我が合一 (梵我一如)すれば、輪廻転生を超越できる

解脱できるという考えが、主流となっていたようですが


ブラフマンであると悟るを、パルメニデス的にいうと

「理性」で把握するということです



パルメニデスのいう「理性」とは

宗教でいうところの「魂」とか「霊魂」に近いのです(笑)





前述したように

人間は五感で認識できるモノやコトしか利用できません


五感で認識できないモノやコトは存在としてあっても

人間にとって存在しないのと等しいのです




ヘラクレイトスの「ロゴス」




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