緋山酔恭の「価値論」 主体性=真理の哲学 ニーチェの君主道徳



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 主体性=真理 】




ニーチェの君主道徳



ニーチェ(1844~1900・ドイツの哲学者)は

現実を否定し死後の幸福を求めるキリスト教と

ソクラテス以来の理性主義を

生きる力を持たない者たちが作り上げた「弱者の奴隷道徳」と批判し


さらに、奴隷道徳の人は

「復讐しない無力を善意や赦しに、臆病を謙虚や寛容に

屈従を従順に、すりかえている」と述べ

「陶酔的、激情的、衝動的、創造的に生きよ」と叫びました




ニーチェの哲学を簡単に言い切ると

人間を理性的な存在とだけ考える見方

理性偏重主義に対して


人間には、理性的な部分だけではなく、非理性的な部分もあり

ともにあって、人間として完成する

ということを主張した というだけのことです




ニーチェの言葉に

≪ 世界には、君以外には誰も歩むことのできない 唯一の道がある

その道は何処へ行くかは 問うてはならない、ひたすらすすめ! ≫

≪ 愛が恐れているものは 愛の破滅よりも  愛の変化である ≫

なんていうのがありますが


こういう言葉を聞くと

ニーチェというのは「哲学者」というより

「詩人」や「宗教家」としての素質があったのではないかと思います



私のなかでは、哲学者としての評価は低いです





ニーチェの主張の要点まとめると


人間は、本来、ギリシア悲劇のように

夢想的・静観的・知性的なもの(アポロン型の芸術)と

陶酔的・激情的・衝動的なもの(ディオニソス型の芸術)

とが見事、調和していた



ところが、ソクラテス以来、理性主義がはびこって

人間が卑小化されてしまった



人間の本質は、ディオニソス的なもの、つまり豊かな生命力と創造力である



ディオニソス的なものを圧殺したのが

理性主義と、現実を否定して天国での幸福を説くキリスト教である



これらは、生きる力を持たない者たちが創り上げた

偽りの価値、「弱者の奴隷道徳」で

これが2千年もの間、ヨーロッパを支配した



新たな価値は、ディオニソス的創造性

生きる「力の意志」によって与えられる



現実を否定するキリスト教

またその神のような超越的な存在によっては与えられない

「神は死んだ」のである


といったところです





【 アポロンは、ギリシア神話の光明や太陽の神

詩や歌、弓術、医術、予言、家畜の神でもあり

あらゆる知的文化活動の守護神


ギリシア・ローマ世界では、太陽や月、星は

その規則正しい運動から秩序や倫理の象徴とされてきた




ディオニソスは

ギリシア神話の豊穣とぶどう酒の神で、バッコスともいう

美青年として描かれる



ディオニソスはぶどう種の栽培と

お酒による恍惚感と陶酔を人間に教えつつ


パン、サテュロス、シレノスといった牧神と

女性からなる熱狂的な信者たちを引き連れ、迫害されつつも

神の力でこれを破り、布教の旅を続けている



信者たちは忘我の状態で乱舞し、大木を引き抜いたり

野獣をとらえて八つ裂きにして生のまま食べたりする


デーバイの王 ペンテウスは

自分の母がディオニソスによって狂乱させられ

陶酔、乱舞して、野獣を引き裂いて食べるなどしているのを

止めようとして、逆に母たちに八つ裂きにされている 】





ニーチェは、≪人間とは神の失敗作に過ぎないのか

それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか≫

という言葉を残し

自らをアンチキリストと称しました




なお、キリスト教の聖書においては

人間は、神の似姿(にすがた)として創造され

神に最も近い存在であり、他の生き物や自然を支配し

奉仕させる権利を持ちます



そこから、キリスト教社会では

野蛮な自然は、文明へと移行すべきであるという世界観を生み

さらには、内なる野蛮、内なる自然である

食欲、性欲、物質欲などの欲望も

理性によって屈服させるべきだという道徳観を生んだとされています





そんなニーチェですが

病の悪化から大学を辞職し、少ない恩給をもらって

スイスやイタリアで著作活動を続けてましたが


イタリア トリノの街頭で倒れ、発狂し

精神病院に入れられ、回復することなく

10年後、精神錯乱のまま没したとされます






ニーチェは「ツァラトゥストラはかく語りき」

という著書のなかで

弱者の奴隷道徳に対して

力の意志にもとづく道徳を「君主道徳」と呼び


この君主道徳において

人間の可能性を極限まで実現させた

理想的な人間を「超人」と呼んでいます


そして超人の具体的な姿を

主人公のツァラトゥストラを通して描いています



新約聖書のイエスの説教をひにくり

このツァラトゥストラに、超人や

永劫回帰〔えいごうかいき・生は永遠に繰り返されること

天国などの彼岸(ひがん)的なものを否定〕といった教えを語らせ

ツァラトゥストラがキリスト教的な神に代わり

人類を支配する者だとしています




ツァラトゥストラとは、世界最古の一神教で

古代ペルシアの宗教 ゾロアスター教の開祖 ゾロアスターのことです


「ゾロアスター」は

イラン語のツァラトゥストラのギリシア語なまりとされています




ニーチェが主人公にこのような名前をつけたのは

キリスト教や、ニーチェがキリスト教の末裔としている

合理主義や科学偏重主義に対する批判からだといいます




ちなみに「ツァラトゥストラはかく語りき」は

1883~85年に書かれたそうですが

ニーチェの晩年までほとんど注目されず

最終の第4部は45部を自費出版しただけだったといいます


ところが90年代半ばから注目され

ドイツの思想界にとても大きな影響を与えています






ニーチェは、「ルサンチマン」を

奴隷道徳の源泉とみなしています



ルサンチマンとは

自分の本性にあざむいて生きる自己欺瞞の感情で

その根底には、嫉妬や羨望、また憎悪や怨恨などによって

鬱屈した状態があるといいます


仏教の十界論でいう修羅の境涯(妬み)にあたります



君主道徳に生きる人は

「わたしはこんなことができるからそれでよい」

という自己肯定から善をモデル化するのに対して


奴隷道徳の人は「あいつは悪い あいつは敵だ

だからあいつと対立するわれわれは正しい」

という他者の否定から善悪をモデル化すると述べています



こうした考察にはおもしろさはありますが

ニーチェの根幹は、デタラメです



ニーチェという人は

人間は「信念」(これだけは譲れないもの)に対しては

「理性」は働かない

ということを理解していなかったのです




≪理性≫は、自己保存の欲求=本能と対立し

「倫理観」や「道徳観」を生じさせ、これを維持しようとする


これが、ごく一般的に考えられている

「理性と本能についての対立の構図」です




では、受験勉強を例として考えてみてください


「自分はなんとしても○○大学に合格するぞ」

という信念にもとづき

自己保存の欲が働いてがんばれるわけですが


このとき理性は

「寝ちゃいけない」「テレビなんかみちゃいけない」と

自己保存を助けていますよね




この事実は

「これだけは譲れない」という信念に従って働いている

「自己保存」に対しては、「理性」は働かないということです


むしろこのとき自己保存を助けるのです




禁欲的生活、理性的な生活を送るキリスト信者が

教義(これだけは譲れないもの)にもとづき


非理性的に、無実の人を処刑していった

「魔女狩り」なんて

それを如実に物語っているのです



だから宗教の信徒は「死」さえ惜しまず

非理性的な自爆テロなんてできるのです


その意味で一般人よりはるかに情熱的です




宗教の本質は、ニーチェがいうように「理性」なんかでなくて

言葉のバーチャルな世界に、人間をひきずり込むことです




これは、未開のシャーマニズムもキリスト教も変わりません

むしろ、理性的と信じられている宗教のほうが

ひどくなっているかもしれません(笑)



キリスト教が世界に広まった最大の要因は

その≪麻酔性≫の強さに他なりませんよ





もとオウム真理教の大幹部で

現在はオウムの後継団体の1つ「ひかりの輪」の代表

上祐史浩(じょうゆうふみひろ)氏が

オウムに出家する際、母親にこう↓語ったそうです


「第三次世界大戦で核戦争がおきて、人々が焼かれるのを防ぐためにも

母さんのためにも 出家しなければいけない

僕たちが一生懸命修行したら、特別な変化がおこって

世の中が真理にもとづく平和になるんだ」



≪第三次世界大戦≫  ≪特別な変化≫

≪真理≫  ≪真理にもとづく平和≫  ≪救済≫  ≪使命≫

≪人類愛≫  ≪世界の終末≫  ≪解脱≫

≪宇宙の根本原理≫  ≪宇宙根源の法則≫




宗教とは、このような

言葉のもつバーチャルな世界において

組み立てられた思考でしか

ものごとを考えられない人間をつくるわけで


それによって

内なる精神に「興奮」「陶酔」「熱狂」を注入することです







キリスト教徒なんかは

≪神に敬虔(けいけん)≫どころが【傲慢】ですよ(笑)


わけの分からない存在である「神」について

「こうである」と断定しているのですから(笑)




言葉とはモノやコトを区別するためにあります

区別しないと、みんな一緒ということになって、わけ分かりません



もそもと、別のモノやコトと区別されたときの「神」

つまり、もともとの「神」という言葉の概念を考えると


「困ったときに救ってくれる存在」とか

「平等に管理してくれる存在」(信じる者が救われる)とか


あるいは

「人智を超えたなんらかの働き」とか

いった程度のものだったはずです



それが、教会を通してして神の救済を受けられないとか


サタンの支配を終わり、最後の審判(イエスのジャッジ)によって

信じる者だけが天国に行き、あとは地獄に行く

なんて話は


誰かがいい思いをするために

もともとの概念の上に積み上げた


言葉のバーチャルな世界に決まっているじゃないですか(笑)



つまり、人間を言葉の世界にひきずり込んで

よろしくやるために創造された「神」の概念ということです




シャーマニズムのような宗教は非理性的で

キリスト教のような教義がしっかりした宗教が理性的である

というのが一般的な考えであり


ニーチェの話もこの考えもとに組み立てられていますが

とんちんかんの大間違えです(笑)




言葉のバーチャルな世界にさらに

言葉のバーチャルな世界を積み上げることで

人間を言葉の世界にひきずり込み


言葉のバーチャルな世界で組み立てられた思考でしか

ものごとを考えられない人間をつくる

という意味においては


シャーマニズムよりもキリスト教の方が非理性です


その証拠に「魔女狩り」なん大量虐殺がおきています(笑)



すなわち、それだけキリスト教信者というのは

言葉への依存度が高い=非理性 ということです




【 構造主義の矛盾 編 】

構造主義を論破する




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