【 構造主義の矛盾 】 構造主義を論破する 構造主義によって サルトルと「実存主義」〔個人の主体性を重視し それによって本来的なあり方を回復するといった立場〕 は葬り去られることになります 「構造主義」とは、個人が所属する構造 (国家・民族・歴史・言語・文化・伝統・生活様式・社会階層など)が 人間の主体性や意識(思考活動)に先行するという立場で 主体は、国家・民族・歴史・言語・文化・ 伝統・生活様式・社会階層などといった ≪構造≫によって決定づけられていると考える立場です 簡単にいうと、日本という構造で生活することによって 主体に日本人という意味づけがなされているということです こうした「構造主義」は、様々な分野に応用され 一時期、世界の思想界を席巻し、多くの人が評価しました 「構造主義」の 事実上の創始者であり代表者とされる人物は フランスの文化人類学者 レヴィ=ストロース (1908~2009・100歳まで生きた)です 彼は、≪どのような民族においてもその民族独自の構造を持つもので 西洋側の構造で優劣をつけるのは無意味≫とし 西洋中心主義を批判し 未開社会にも独自に発展した秩序や構造が見いだせる と主張したことで知られています また、サルトルと論争し ≪主体ではなく、主体間の構造こそが重要≫と論じ これに対しサルトルは反論を試みるも レヴィ=ストロース以上に適切な根拠を挙げて語ることがてきず 「実存主義」は葬り去られることとなったのです 確かに、構造は、主体を規定しているでしょう ただ、構造主義の 主体の全ての根拠を≪構造≫に求める考えにはムリがあります 構造(社会・生活様式・文化)は主体を規定しますが 主体も構造を、つねに改築し規定していくからです 例えば、つい最近までの日本には ≪女性は成人したら早く結婚し 夫に仕えることこそが幸福である≫という 「パラダイム」(支配的な考え方やものの見方)が存在しました なので「結婚」という言葉に、そうした世界が投影されていたのです そして、そうした言葉の世界に規定された主体から また新たに「売れ残り」とか「行き遅れ」なんていう 言葉と世界が生まれ 適齢期までに結婚できない女性が ろくでなしのように言われる社会(構造)が、生み出されていたのです 仏教では、千年以上も前に 生命=自己=主体は 「依正不二」(えしょうふに)と 「色心不二」(しきしんふに)という側面で成り立つことが説かれています 「依正不二」とは、自己(正報)と、自己がよりどころとする環境(依報)は 一体で切り離せないという原理です 「色心不二」とは、生命の物質的側面である色と 精神的側面である心は一体で切り離せないという原理です 病気で熱があれば、心も不安となり 逆に、心に痛みがあれば表情も暗くなります 生命=自己=主体は 「依正不二」と「色心不二」によって成り立つ これを存在論的にいうと ≪存在は、依正不二と、色心不二で成り立つ≫ と言えるでしょう 「依正不二」の 正報(しょうほう)というのは、生を営む主体 我々の心と身体です つまり、美人に生まれたり醜く生まれたり 健康に生まれたり病弱に生まれたり 頭がよく生まれたりバカに生まれたりというのが正報です 生まれながらに具わっている素質です これに対して、依報(えほう)は、正報がよりどころとする環境です 裕福の家にうまれたり、貧乏の家に生まれたり 両親そろった家に生まれたり、片親しかいない家に生まれたり 両親が仲のよい家に生まれたり、喧嘩ばかりしている家に生まれたり 平和な国に生まれたり、戦乱の国に生まれたりというのが依報です そして、正報と依報が「不二」(ふに・2つにして2つにない) すなわち、一体体で切り離せないというのが「依正不二」です 「私には正報がない」という人間など存在しないし 同様に「自分には正報だけあって依報はない」という人も存在しません つねに人間は環境と一体で存在するというのが「依正不二」です 「正報」と「依報」とは「宿命」と言えます 但し、仏教の基本の原理は「空」です 「空」とは、すべてが変化してやまない 一瞬一瞬変化しているということです 「空」とは、「無常」で「はかない」という意味をもつ一方 新たな因と縁が加われば、たちまち変化し、また新たな果を生じさせる ということでもあり 決定論や宿命論とは、対極にあるということも付け加えておきます 話を構造主義に戻します 構造主義とは、主体の「依報」だけを説き 「正報」が抜け落ちている理論と言えます 女性なら、美人に生まれるか、ブスに生まれるかで 他人の扱いが大違いです これは主体が、正報によっても、規定されてくるという事実ですが 構造主義は、これを無視しているということです 美人、ブスの判断は、構造の生みだす パラダイム〔支配的な考えやものの見方〕によるものである という反論もできるかもしれませんが ≪頭がよい、悪い≫とか ≪健康、病弱≫とか いったことからくる 主体の規定は、明らかに、構造の生みだすものではありませんよね 凶悪な殺人犯を、死刑にするか、無期にするかの判断で 「情状酌量」の余地として、本人の育った家庭環境が、考慮されたりします 「家庭環境」というのは 幼少期から青年期に至る最大の≪構造≫として 個人に影響を及ぼすものと言えます ただ、同じ家庭環境で育った兄弟が、まじめに生きている という理由から「情状酌量の余地なし」という判断が出されることも多いです となると、こうした構造が どれだけ主体に作用するかは、人によって様々であると言えます もともと、能力も、容姿も なにももたない人間が「自分の根拠」「居場所」を築いていく というのは、たやすいことではありません なので、そうしたことから 凶悪な人間にならざるを得なかったケースも多いはずです つまり「依報」と同じくらい「正報」による≪宿命≫というのは 主体を規定していく要素になるということです また、私たちの「主体」は、パラダイムのもとに価値判断しています パラダイムとは2つあって ≪世間のしきたりやしがらみ 常識や人気などでものごとを見てしまうパラダイム≫と ≪自分の経験や知識でものごとを見てしまうパラダイム≫です 後者は、必ずしも構造とは、関係しません 子供のときに、波にさらわれそうになったり 犬に噛まれたりすると 「海」や「犬」という言葉に、恐怖の世界を積み上げてしまうのです また、構造主義においては 主体は、別のグループの構造との≪差異≫によって 意味づけされている と考えますが 人間を規定しているのは 他の構造との違いから生じている≪差異≫よりも 構造のもつ≪パラダイム≫の方がずっと大きいはずです それに、≪差異≫を創造することこそが、幸福を創造することです ≪差異≫が、「救済原理」〔自分を成り立たせている根源的な論理 〕 「存在の根拠」になるのです 「私は〇〇ラーメン店で麺打ちが一番早くできる」 「私は〇〇家の父である」 「私はこんな珍しいモノを持っている」 「私たちは神に選ばれた選民である」 「日本は神国である」・・・ 人によって、救済原理、存在の根拠はさまざまですが それによって自分という存在を成り立たせ、人生に生きる意味を与え 生きがいとアイデンティティーを得て、人はここにいるのです つまり、≪差異≫による規定は 他との≪差異≫によって、主体が受動的に規定されるよりも 主体が自ら、他との≪差異≫を、能動的に創造することによって 主体自体を創造していける 新たに主体を規定していけるという性質が強いのです 仏教の話でいうと、依正不二なのですから 依報、すなわち環境的な宿命を変えていくことが 主体そのものを変えていくことであるし 具体的には、自分の根拠を創造していくことでもあるということです 前述のとおり レヴィ=ストロースは、サルトルと論争し ≪主体ではなく、主体間の構造こそが重要≫と論じ これに対しサルトルは反論を試みるも レヴィ=ストロース以上に適切な根拠を挙げて語ることがてきず これにより事実上、サルトルと「実存主義」は 葬り去られることになったといいます ストロースによると ≪構造は別のグループとの差異を感じさせる その無意識にひそむ差異が人間=主体を規定する≫ということです 美人の子たちが 美人の子どうしでグループ(ブランド)をつくり 下等と評価した子をいじめる その仲間に加われば 自分にもブランド(自分の根拠=価値)が生まれる この事実一つとっても ストロースの話は、デタラメで 主体の意味づけは、無意識でなく 意識レベルです 主体は、主体が所属する 差異に対して、意識レベルで 意味づけ=価値づけ(是非の価値づけ) をすることで 主体は、その差異に規定されていくのです デリタとフッサール ニーチェの君主道徳 (ひとつ戻る) |
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