緋山酔恭の「価値論」 主体性=真理の哲学 キルケゴールの「真理」



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 主体性=真理 】




キルケゴールの「真理」



デンマークの哲学者

キルケゴール(1813~1855・宗教思想家)は

真理は、主観的、個人的なものと主張しました


キルケゴールは、流行していたヘーゲル哲学に疑問をもち

様々な事実のなかでも、自分自身の存在こそが最も捉えがたいものに

ほかならないという考えに至り


「私はなぜこのような存在として生まれ落ちたのか?」

「私はなぜこの先どのように生きるべきかを

自らの責任において選択していかなければならないのか」

という思いに至ったとされます



つまり「実存」(自己の主体性)こそが

哲学における最大のテーマであり、真理であり

これに関係しない普遍的真理などを知ってもなんの意味もないと

キルケゴールは考えたとされます


このため、実存主義の祖とされています



実存主義とは、個人の主体性=実存 を重視し

それによって、人間の本来的なあり方を回復するといった立場です




キルケゴールは

真のキリスト教精神の復興を目指し言論運動を開始して

デンマーク国教会の腐敗を糾弾する小冊子を9号まで刊行し

10号の発刊目前に路上で倒れ、病院で死去したくらいの人ですから


彼のいう「真理」は、真のキリスト者になるコトです


「私がそのために生き、死にたいと思うような理念」

が彼の真理です





キルケゴールによると、人間は、第1の段階において

人生の不安から逃れるため享楽に逃げる


しかし倦怠におそわれ、第2の段階では、道徳的規範を受け入れ

誘惑と戦いつつ義務を果たそうとする


しかし、自己の有限性に気づいて絶望する

絶望とは罪であり、この罪から逃れるには


第3の段階の信仰しかないといいます





“絶望とは罪”とは?

絶望には、自分が絶望にあることに気づいていない無知の絶望

絶望を自覚しているため自己であろうとしない弱さの絶望

自覚しつつあえて絶望の自己であろうとする強情の絶望


の3種類あるが

絶望は全て罪である


これらが絶望であるのは、どの絶望も

自分を自己の根拠とし、神を自己の根拠としていないからだ

といいます



神を自己の存在の根拠としない人は傲慢ゆえ罪であるし

傲慢ゆえ絶望の状態あるということのようです



また、死によってもたらされる絶望は

現実世界でどのような可能性や理想を追求しようとも逃れられない


この絶望を逃れるには神による救済しかない

神と関わり本来的自己を取り戻すしかない


だから信じる者になりなさい  という話です



従来のキリスト教の“信じることによって救われる”

というのとはちょっと違うわけですが

大差ありませんね(笑)





キルケゴールの実存主義は


≪ 客観的な真理は、自己の外側に立って

歴史や世界を記述するときには有効であるが

主体的生命活動には、意味をなさない

人間の生は、客観的な歴史や世界にのみ存在しているのではない


歴史や世界の内部で、孤独や不安や絶望につきまとわれるなか

自己の行く末を選択し決断しつつ存在しているのである


人間とは、普遍化・抽象化〔共通している性質だけを抜き出して

作り出された1つの概念〕された人間

すなわち本質としての人間ではなく


それぞれの実存(=主体)が、それぞれの人生を生きる

具体的な人間として“いま・ここ”において存在するのである


歴史や世界の内部で

自己の行く末を決断するのは主体であり、主体こそ真理である


人はつねに行く末を決断しなければならない状況にある

このような迫られた現実のなかでの答えこそが、主体性である

人は主体として存在しつつ、つねに問題を解き、真理を生成している ≫


といったところです



キルケゴールが「真理」を客観から

主体へと転換されたことは

哲学史において偉業とされていますが

これは「真理」でなく「価値」です


真理と価値の混同です(笑)




ちなみに、ニーチェが奴隷道徳の源泉とみなした

「ルサンチマン」は、キルケゴールによって提唱された概念だそうです




ニーチェの君主道徳




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