【 屁理屈 編 】 エルンスト・マッハの科学哲学 言葉にだまされるという意味においては 「物理学」も一緒です アインシュタインの≪相対性理論≫というのは 時間についての土台=概念 がおかしいのです ≪時空≫というおかしな土台をこしらえて 数学的な正解だけを、積みげたものなのですが みんな、言葉の世界を疑うアタマをもたないので 「相対性理論は正しい」という観念から抜け出すことができないのです エルンスト・マッハ(1838~1916)は オーストリアの物理学者であり 実証主義哲学(科学哲学)における哲学者です 実証主義とは、経験主義に近く 感覚的経験によって認識できない 「神」や「イデア」のような形而上学的な存在を認めない立場です 彼は、近代における現象主義の代表でもあります 現象主義とは、 【 表象(知覚像)は 現象(意識の中に現れるもの)にすぎす 意識の外のものではない 現象外部の存在=客体 については 不可知(人知では知ることができない)である 客体の存在を認めることは 経験を超越した存在を認めることである 】といった立場です 「このケーキ美味しい」→ 脳の中の出来事かもしれない ケーキの実在性は証明できない といった屁理屈です(笑) 【 哲学においての「主体」とは 認識や価値判断をする当の存在で される側が「客体」です これに対し「主観」とは、 認識・行為・評価などを行う意識のはたらき またそのはたらきをなす者で 認識論においては、主体と主観と同義として扱われます 一方、客観とは、主観の認識や価値判断の対象となるもの 主観に現れるもの 主観から独立して存在するものをいいます 】 マッハは、物理学においては 空気中を動く物体の速さが音速を超えたとき その物体に対する空気の性質が急激に変化する ことを明らかにし この功績により 空気中での音速は、マッハ1と呼ばれ 音速の2倍がマッハ2、音速の3倍がマッハ3と呼ばれています 科学哲学においては ニュートンの「絶対時間」「絶対空間」の概念には 形而上学的な要素が入り込んでいるとして否定しました この考え方は、アインシュタインに大きな影響を与えています 但し、マッハは 相対性理論に対しても、生涯、否定的な立場をとったとされます とはいえ、彼は、物理学の欠陥を 具体的には何ら指摘できていないことも事実とされます マッハによる「絶対空間」の否定 を書いておきます ニュートン(1643~1727年)は 天体の運動を、絶対空間と絶対時間によって記述しました 絶対空間とは、静止している空間です 絶対空間という考えに立つと 宇宙空間は静止していて、その中を地球をはじめとした天体が 運動(自転なり公転なり)しているということになります これに対し、エルンスト・マッハは絶対空間を否定します ≪運動とは、物質と物質との相対的位置関係の変化である 地球が公転しているのか 宇宙が逆向きに回転しているのか分からない≫ という主張です ニュートンは「ニュートンのバケツ」という実験によって 絶対空間を説明しようとしました 半分位水を入れたバケツに、ひもをつけて天井に吊るします そして、バケツを回転させます 最初はバケツのみが回転し、水面は平らです やがて水も回転をはじめ、遠心力(外へ飛び出そうとする力)によって バケツの端は水面が高くなり、中央部分は低くなります バケツと水の回転とが同じになった時、最も水面が上下します この事実から、ニュートンは 水に生じる遠心力は 水と空間の相対運動により生じるものではなく 静止している絶対空間で 水が回転運動(絶対運動)することによって生じるのだ と説明しました 要するに、≪「動いているかどうか判定できない」というのは 等速直線運動の場合に限る 観測者が回転運動をしていれば、遠心力を感じるので 自分は回転しているのか静止しているのかを判定することができる ≫ ということのようです これに対し、マッハは バケツは静止していて、宇宙(空間)の方が逆向きに回転していても 水に対し、遠心力は生じるはずだと反論します 遠心力は、水と空間との相対的位置関係の変化=相対運動 によって生じているというわけです マッハは「ニュートン力学」に対し「マッハ力学」を提唱し 静止系を否定する相対性理論に強い影響を与えたとされます (特殊相対性理論では、静止している観測者も 等速直線運動の特殊な場合とし、慣性系とみなします) 結局、マッハの考えというのは 地球も、人間も、粒子も、運動しているのかわからない 空間(宇宙)が運動しているのかもしれない 証明のしようがない というものなのです さらに、マッハは、ニュートンの「力」という概念をも否定し 「原子論的世界観」(全ての物質は原子からできているという考え)や 「エネルギー保存則」についても批判しています 20世紀最大ま哲学者と称される ウィトゲンシュタイン〔1889~1951・オーストリア出身 イギリスのケンブリッジ大学教授 言語哲学者・論理学者・分析哲学者・生涯独身〕の 「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 〔語られたものだけが、現実になり、真実にもなる〕 という言葉によって 形而上学(けいしじょうがく)は終焉を告げた とされますが でも、我々は、ホントは平行ではないものを 人間の決めごととして≪平行線≫と呼んでいるのです 直角でないものを≪直角三角形≫と言っているのです この意味は、平行線も、直角三角形も 「神」や「霊魂」と一緒で、形而上学のものでしかないということなのです 私(緋山)は、エルンスト・マッハのように 【相対性理論は形而上学である】と批判しているのではありません 相対性理論の「時間」が ≪人間の認識≫ ≪人間の真理≫ というレベルにおいてすら、間違っているということであり その根拠を「時間論」に書いたのです それから「真理」や「神」について語る パルメニデス、プラトン デカルト、パスカル、ヘーゲル・・・の考えを 「形而上学である」として、退けているのでもありません 「イデア」や「神」だけが バーチャルかといえば、そうではありません 「愛」も「尊厳」も「人権」も「正義」もバーチャルなのです なので、どこまでが、形而上学の対象であって どこからが形而下学のそれであるのか なんてことはあやふやなのです どうして? それは、人間という存在が 言葉に、つぎつぎとバーチャル的な世界を積み上げて それによって、概念を定義しまうからです その代表が、パルメニデス、プラトン デカルト、スピノザ、パスカル、ヘーゲル、ヴェイユ・・・・ であるということです 人類は、全人類が食べていくのに十分な食糧を生産しています 富める国で過剰に生産され、廃棄している食糧が 貧しい国の人たちに分配されれば この世界から「食べることに苦しむ」という不幸の1つが消滅します こんなことは、皆が解っていることですが この誰もが解る単純な話が実現できないのが 人間という英知をもつ存在です だから世界の1/6もの人が、今も飢餓で苦しんでいるわけです カントは、人間は≪良心≫(実践理性)という道徳原理を 生まれながらにしてもつといいますが ≪仏性≫だとか、≪隣人愛≫だとか ≪良心≫だとかいった道徳的な原理が 限定的なコトにしか働かないということを如実に示しています 【 穀物は世界で年間23億トン生産されている これは世界中の人が生きていくのに必要な量のおよそ2倍にあたる 先進国では穀物の6割が家畜のえさになっていて 肉食が飢餓を増大させている 世界の2割足らずの先進国で、世界の穀物の半分以上消費している このことから、食べるものがいつでも十分に手にはいるのは 世界のおよそ2割の人だけと言われている 日本は年間に、世界が貧困国へ行っている 食糧援助総額分の3倍近くの食べ物を捨てていて 世界一の消費大国アメリカをも上回り、世界一の残飯大国だという 日本の食べ物の廃棄量は年間2000万トン これは1秒間に、おにぎり8600個を捨てている計算になるという この数は、人口が2倍を超えるアメリカよりも多いし ヨーロッパ各国に比べても3、4倍多いとされている 】 結論を言うと 創価学会の新聞を毎日新聞が印刷している世の中 言論の自由なんて「嘘」の世の中… 肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり 飢餓が増えることを知りつつも毎日、肉を食べ 多くの人を殺している私たち… これは、家畜を食べているというのではなく 我々先進諸国の人間が肉食獣として 草食獣の発展途上国の人間を食べているのと同じです それにコンビニのお弁当を食べるたびに 分解しにくいプラスチックを廃棄し 地球すら破壊しようとしている私たち・・・ 全てのことが「お金」の世の中… そんな上に私たちは 「人権」だとか「尊厳」だとか「正義」だとかいった バーチャルな世界、言葉の世界をつくり上げ その上にのっかって生活しているのです つまりゲームの世界だけでなく 現実と信じている私たちの世界そのものがバーチャル 仮想現実の上にのっかった現実なのです ついでに言うと「価値生活」とは ≪痛みをさけ、快楽を求める≫という生命活動であり 我々が行動する理由、人間の行動原理に ≪痛みをさけ、快楽を求める≫があるということです また、価値判断には 理性や知性、あるいは意志による場合もありますが 多くは感情判断です 感情とは、刺激(情報)に対する「是」か「否」かの反応です 我々の生活が、価値生活であるということは 我々の人生の大半が 刺激に対する反応( = 感情)でできあがっている ということです なので、価値生活のレベルでいうと 個々人の反応(感情)の総体が、我々の世界と言えます そして、我々の世界が反応(感情)の総体であるゆえに マスメディアによる「情報操作」や「印象操作」 政治や宗教、あるいは物理学会による 「プロパガンダ」(思想宣伝) などが効果を生み そこに、しきたりやしがらみ、常識や人気などといった 「社会のパラダイム」(支配的なものの見方や考え方) が成立し さらにその上に、自分の知識や経験でものを見てしまう 「個人的なパラダイム」(色眼鏡)が生じているのです ヒュームもラッセルも馬と鹿 シモーヌ・ヴェイユの自己否定 (ひとつ戻る) |
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