【 観念の塊 編 】 シモーヌ・ヴェイユの自己否定 「合理」の反対には「不合理」と「非合理」というのがあり ともに、道理にあわないことを意味しています 但し、哲学においては「非合理」という言葉は 合理的な思考を超えた存在 知性や論理を超えた存在 なんて意味にも用いられています つまり、≪究極的な真理≫ ≪宇宙の根本原理≫ ≪宇宙根源の法則≫ ≪宇宙精神≫ ≪神≫ のことです 重要なことは 人間の認識作用を超えた「真理」が存在するには 「価値」の世界が不可欠であるということです なので、「非合理」を前提に語る 宗教家なり、哲学者なりの ≪真理≫という言葉には、必ず、価値の世界= 言葉のバーチャル世界が、のっけられているということです デカルト、スピノザ、ライプニッツといった大陸合理論の代表者 つまり合理主義者の代表とされている彼らですら 前述してきたとおりです ヘラクレイトス、パルメニデス、プラトンといった 先哲が、「感覚」や「思考の合理性」を排して ≪真理≫に迫ったというのもデタラメです ≪真理≫といった言葉にだまされて バーチャルな世界を組み立てるという 最も人間らしい思考をしてしまった人たちです パルメニデスの場合は、「魂」を「理性」と言い換え (宗教的な)「体験」を「論理」と言い換えて 我々を言葉のトリックで だまくらかそうとまでしているのです(笑) それでも、ヘラクレイトスやパルメニデスあたりは まだましです 根源的なものに対して 直接的に、目が向けられていることが 彼らの思想から受け取ることができます ところが、西洋哲学というのは プラトンにしてすでに、強烈な主観性を帯びているのです 前3世紀の新プラトン主義のプロティノスのそれは 我々日本人の感覚からすると、宗教としか思えませんよね 近代の デカルト、スピノザ、パスカル ライプニッツ、ヘーゲルあたりにおいても 言葉の世界に、さらなる言葉の世界を積み上げるだけのもの でしかありません その結果、シモーヌ・ヴェイユ(1909~43・フランスの女流哲学者)の ≪観念(主観)の塊≫としか言えない哲学が誕生しています 彼女の考えの最も根本的な部分は、以下のとおりです 1、宇宙には「光」と「重力」という2つの力が存在し 創造は、重力の下降運動、恩寵の上昇運動 それに二乗された恩寵の下降運動 からできている 〔 二乗された恩寵の下降運動とは 神の受肉(イエスとして生まれたこと)をさすようです 〕 2、世界はひたすら下落へと向かう重力に支配されていて それから免れようにも魂は誤りを犯す 「神の恩寵」によってのみ下落から逃れ 高みに昇ることが可能である 3、神は世界創造以前には完全であった 神は創造によって自分以外のものが世界に存在することに同意した 創造とは拡大ではなく収縮であり、神の自己否定である 神が、人(イエス)として生まれ、十字架にかかったということも 神の自己否定である 4、神の自己否定によって存在を与えられた私たちは 神の模倣、つまり≪自己否定≫によって神に応えることができる 5、その自己否定こそが≪隣人愛≫と≪美への愛≫である 「愛」とは、神がそのように創造した世界をそのまま受け入れることとであり 自己の支配力を否定することである 6、世界が善だから愛するというのではなく 悪を憎悪しつつも、神と神が創ったこの世界を愛するべきである ヴェイユの哲学というのは デカルト、スピノザ、ライプニッツ、パスカル ヘーゲルらが創造した≪言葉の神≫にだまされて そこにさらなる言葉の世界を積み上げてしまったというものです また、それによって「神」や「愛」の新たな定義をしてしまった というものです ≪二乗された恩寵の下降運動≫ なにそれ? 無駄な英語ってすごく多いですよね 今では定着した感がありますが 「コンセンサス」なんて「合意」か「意見の一致」ですみますし・・・ もちろん、日本語にない言葉もあるので カタカナ語が全て悪いとは思いませんが・・・ 一般的な日本人は、日本語で物事を考えるので 日本語でない言葉は余程意識しないと 正しく認識できないようになっています なので、それなりの地位にいて、カタカナ語が多いと その人は、(本質をごまかしたい) 詐欺師・ペテン師 と認定せざるを得ない でなければ、本当に≪残念な人≫ということになります ペテンの哲学者の場合 「造語」というのをこしらえて、これをやるのです 10人が10人読んで、違った意味に解釈する話に そもそも「真理」なんてあるわけないじゃないですか(笑) そう解釈されるよう意図をもって書かれたものでしかない ということです 【 屁理屈の哲学 編 】 エルンスト・マッハの科学哲学 ヘーゲルの絶対精神 (ひとつ戻る) |
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