【 構造主義の矛盾 】 デリダとフッサール 新約聖書の「ヨハネの福音書」の書き出しは ≪ 初めに言(ことば)があった。言は神とともにあった この方は初めに神とともにあった すべてのことは彼により成り、彼によらず成ったものは何一つなかった 彼において成ったものは命であり、その命は人々の光であった その光は闇の中で輝き、闇は光に打ち勝てなかった ≫ です ポスト構造主義の代表に ジャック・デリダ〔1930~2004・ フランスのユダヤ系哲学者。アルジェリア出身〕という人がいます ポスト構造主義のポストとは「後の」の意味で ポスト構造主義とは「主体」を解体させた構造主義を継承しつつ 形而上学的思考を批判し、非形而上学的思考の可能性を 模索した立場だといいます デリダは、西洋の形而上学は プラトン以来、ずっと前提に はじめに、神のロゴス(言葉、声・理性)があるとした 「音声中心主義」あるいは「ロゴス中心主義」であるといいます デリダによると 【 西欧の形而上学は、そのロゴスを基盤に 神と悪魔、魂と肉体、人間と動物 主観と客観、知性と感情、善と悪、同一性と差異 パロール(音声言語)とエクリチュール(文字言語) などいった「二項対立」をつくりあげ 前者か後者より優れているといった論理で成り立ってきた しかし、ある人が、絶対的な真理Aを打ちたてようとするとき そこには必ず正反対のBへの反論が含まれてしまう これはAがBによって汚染されることを意味するので 絶対的な真理の構築なんて、本来、不可能である 】 というのです 【 真理というのは 真理でないものを排除すること=差異によって成り立つ それゆえ、直接的に真理を把握することは出来ない 】 というのです そして、これにより形而上学を批判したのです ≪これはりんごである≫という真理には 他の≪りんごでない全てのモノ≫に対する否定が含まれている これはありのままに真理をとらえていない証拠だ 真理なんて人間には把握できない といった程度の話なのですが これを「究極の真理」とか「絶対的な真理」といったものに 適応したのです そしてデリダは、哲学者の仕事とは こうした二項対立を解体し、乗り越えること つまり西欧形而上学を≪脱構築≫すること であると主張したのです 弁証法」とは 第1の段階が、ある概念や主張をたてるテーゼ(正) 第2の段階が、その概念や主張に対して 正反対の概念や主張をたてるアンチテーゼ(反) 第3の段階が、正と反の矛盾を統一または総合するジンテーゼ(合) こうして全てのことがらは、低い段階の否定を通じて高い段階へと進む 高い段階には低い段階が保存される 〔これを「止揚」(アウフヘーベン)という〕 というものです これに対し、正と反をいったん解体し、そこから新たな立場、考えを打ち立てる これが≪脱構築≫になるかと思います ≪脱構築≫の戦略として デリダは、≪差延≫(さえん)という考えを打ち出します 「差延」(ひきのばされるといったような意味)とは デリダの造語で、彼によると「語でも概念でもない」そうです パロール(音声言語)は一瞬一瞬消えていくので「差延」はない これに対してエクリチュール(文字文章)は 時間を超えて伝えられていく こうして、模写としてのエクリチュールは 模写を繰り返していく(再現前)うちに 根源的な意味とは、ズレ=差異が広がっていってしまう エクリチュール(文字文章)は 時間との関係から、真理を表現できない といった話です 「差異」を延ばし続ける運動を、デリダは「差延」といい これによって、究極的真理などを伝えていくのはムリ と主張したわけです また、ある文章を読んで、共感した人が、自分の著述に引用する さらにそれを読んだ人が、また別の著述に使用する このようにして、別の文脈(コンテクスト)の中に組み込まれていくうちに もともとの言説が全く別の意味をもつようになる このようなことを≪散種≫と言っています 今日の現象学は、フッサールの現象学に始まる とされていますが デリダは、認識論においてもこの「差延」をもちこみ ドイツの哲学者 エトムント・フッサール (1859~1938・ハイデガーの師)の考えを否定します まず、フッサールについて述べておきます フッサールは、デカルトからおよそ300年後の人ですが ≪ 「あらゆる意識は、必ず何かについての意識である」 つまり「考える対象があって、我あり」である ところが「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの原理だと 考える対象がなくても考えることが出来てしまう ≫という疑問を持ちます そして、ノエマ(考える対象) ノエシス(考えるという行為)という概念を立てます そして、≪ 考える対象を思い浮かべたとたん すでに人は考えてしまっているので ノエマとノエシスとは明確に区別されるものではない 一体で切り離すことができないものであり、究極として同じものである ≫ と主張します 一般的に、我々は、知覚された世界(主観)が 他人と違うことはあったとしても 客観は同じモノとして存在し、客観が存在して主観がおこっている と考え、客観の普遍性と実在性は疑いません これに対しフッサールは ≪ 客観世界が実在するかどうかは確かめようがない なぜなら、目の前の知覚された世界も 記憶や想像によって現われた世界も 全ては意識の中に現われた世界としか言えないからだ ≫ と主張したのです ちなみに現象学と従来の現象主義との違いは 現象学が「意識の外に客観世界が実在している」 という思考を、一時的に保留(エポケー)にし その上で「客観世界が実在している」という 確信が成立する条件を問うという 「たてまえ」を設けていることぐらいでしょう フッサールの話だと 考えられるもの(客体)を思い浮かべたとたん すでに人は考えてしまっているので 「過去」と「未来」は独立して存在するものではなく 唯一実在である「現在」に所有されているもの ということになります これに対しデリダは 【 AをAであると認識するには、別のBの参照が必要だが これにより時間の遅れが生じる このため実際に存在するAと、認識されるAは同一ではない 2つは同一の現在に存在できない 存在するAは過去の痕跡としてのみ、認識されるA(=現在)に含まれる ゆえに意識に直接与えられたA(=現在)などなく 誰1人としてありのままの世界・真理には到達することが出来ない 】 といいます 目で見ているものは全て、光の反射です だから今こうして見ている世界とは 厳密には一瞬過去の世界であるわけです 例えば、≪私が、今 あなたを見ている≫ということは 実際にはあなたに反射した蛍光灯の光を見ているということです このような時間の遅れからいうと 現在のあなた(真理)を知ることができないということになります デリダの話は、あたりまえすぎてバカバカしい話だけど それゆえ間違えではないですよね? いえいえ 「実際のりんごは認識できない」と 「現在のりんごは認識できない」では違います ≪過去のりんごを認識している≫というのは 過去の実際のりんご(真理)を、現在、認識できているということです デリダは、形而上学が打ち立ててきた 「真理」や「善」のなどの概念を ≪言葉のあいまいさ≫から ズタズタに解体したなんて言われていますが 「真理」という言葉に さらに≪脱構築≫だの≪差延≫といった 言葉の世界を積み上げただけの人です 「差延は、語でも概念でもない」って意味がわかりませんよ(笑) 【 「これは、りんごである」(真理)という主張には 他の≪りんごでない全てのモノ≫に対する否定が含まれている 「みかんでない」「レモンでない」「バナナでない」 「ももでもない」・・・・が含まれていて汚染されている これは、りんごという対象を ありのままに認識していない証拠である 真理なんて人間には、認識できない 】 これは、ヒュームの因果の否定と一緒です ≪りんごのありのままを認識している≫という論理も ≪りんごのありのままを認識していない≫という論理も どちらも「人間の認識において」にすぎないということです それに、≪りんごのありのままを認識していない≫ という論理だと そもそも、人間が認識するりんごのありのままの真実 カエルが認識するりんごのありのままの真実 バッタが認識するりんごのありのままの真実 って違いますよね ならば、人間の世界においては 人間の認識する「りんご」が、ありのままの真実ではないのですか? という話になりますよ(笑) この話は、真理の真実 で書きました 【 真理の真実 編 】 ( 価値論 根幹部C ) 分析命題と総合命題について 構造主義を論破する (ひとつ戻る) |
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