緋山酔恭の「価値論」 価値とは? 真理とは? 三種類の善・カントの善vsニーチェの善



価 値 論


q第一章

価値とはなに?


 




価値の正体 編


( 価値論 根幹部a )




三種類の善



「善」にはおよそ3種類あります


正しくは

善という言葉は、3種類の意味で使われているということです



① 社会が悪と判定しようと

自らの宗教観や道徳観、倫理観

あるいは信念や使命感、正義感により、正しいとなされている善



② 自分の行為が

自分にとって価値であるか、そうでないか

また、自分の意志によるものか に関わりなく


相手や社会にとって有益であることで、自分の行為に生じる善



③ 特定の社会で、多くの人に正しいと信じられている善  です





「カントとニーチェの善の論争」は有名ですね


ドイツの哲学者 カント(1724~1804)は

“善を行おうとする意志(=良心)によってなされたのなら

結果はどうあれその行為は善である”と述べ


ニーチェ(1844~1900・ドイツの哲学者)は

“技術によってなされた結果のみが善であり、意志は無関係である”

と反論しています




ニーチェの主張を判りやすく述べると

自分の善意や良心、意志と関係なく


相手(他者)または社会が「利」という価値を得たなら

自分の行為に「善」という価値が生じる


逆に、相手または社会が「損」という反価値を得たなら

自分の行為に「悪」という反価値が生じる ということになります





「そりゃカントが間違えでニーチェが正しいよね

だって、善の意志でなされたことが全て善だというなら

宗教の狂信者によるテロ行為は全て善ということになるからね」


といった単純な話ではありません



ニーチェの主張が正しいというのは、あくまで

"他者また社会を主体としたときに生じる善"についてです


この場合、善か悪かは

自分の価値・反価値あるいは意志に関わりなく生じます




これに対して、"自らを主体としたときに生じる善"も存在します


自らの宗教観や道徳観や倫理観、あるいは信念や使命感

正義感によって、正しいとしてなされた行為は


社会が「悪」と判定しようと、自分にとっては「善」です

カントが主張する「善」はこの善です



別の言い方をすれば

「正義か悪か、正しいか正しくないかは自分で決める」

「自分が正しいと信じることを正義とする」

という善・正義が、カントの立場と言えます




つまりカントもニーチェも、ある観点において正しい

とは言えますが


彼らは全く別の善が存在していることを

知らなかったということになります




もっというと、絶対的また究極的な善悪、正邪なんて存在しませんが

善悪、正邪は、社会あるいは個人の価値として存在してるのです




主観的な価値と客観的な価値




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