緋山酔恭の「価値論」 幸福の内容としての価値・幸福の対象としての価値



価 値 論


q第一章

価値とはなに?


 




価値の正体 編


( 価値論 根幹部a )




価値を簡潔に定義する



価値というのは以上のようにとんでもなくやっかいなのです



簡潔に定義しておくと

≪価値とは、主体の対象(客体)に対する一方的な評価により生じる

かつ自己の置かれている状況や状態により変動的である≫

ということです




また、人は、DNAに起因する傾向性や

様々な人生経験から

価値観が別れていきます


これが「多様化」です


そしてその価値観こそが自分自身であり

その価値に、自分が投影されているのです




我々の世界には、新たに価値を創造して

他者の共感を得ようとする行為があります


これが「芸術活動」です


それゆえ芸術の本質は、価値の多様化にあるのです







価値の分類



以上を踏まえて、価値というのを分けると

大きく4つに分かれます


人は「価値を得る」とか「価値がある」とか「価値的な行為」とか

「社会的価値」などと言いますが


言葉として使っている「価値」には4種類あるということです




1つは、五感を通して得る心の満足

美味しいとか、楽しいとか、美しいとか、いやされるとかいうものです





別の1つは、自分にとって必要なモノやコトです


お金、仕事、家庭、趣味、宗教、思い出、夢

自分のルール、信念、理想、誇り、人生観、倫理観などです


のちに語るカントの善もこの価値と言えます


この価値が、一番、一般的な価値の概念(共通認識)と言えます





さらにもう1つは

自分の行為が、自分にとって

「醜」や「損」といった反価値(不必要)にしかならない

としても


相手あるいは特定の集団、社会にとっては

「有益」(価値)であり


自分の行為、あるいは自分自身に

「善」という価値が生じるというものです



これは、その反対もしかりです


例えば、ドロボーが空き巣するのは

自分にとって必要なモノやコトを手にしたいがためですが

社会にとって「害」(反価値)で


このドロボーの行為、あるいはドロボー自身に

「悪」という評価、価値判断がなされる


というようなことです




すなわち相手あるいは社会が

価値を判断する主体であるにもかかわらす


自分(特定の個人)に、直接的に価値、反価値が生じる場合です



但し、この自分に直接的に生じた「善」という価値が

自分にとって価値(必要なモノやコト)か?

というとまた別の話になります


のちに語るニーチェの善がこれです




この3番目の価値のミソは

行為の選択は自分の意志や信念によりますが

(選択そのものが、信念のように、自分の価値の場合もある)


その価値を決めるのは他人や歴史ということです



歴史の審判にゆだねるというのは

後の世の人々の価値判断にまかせる

価値判断に期待するということです





十字架にかけられたイエスは

最後に

「わが神、わが神、どうして私を見捨てるのか」

(エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ)

と叫んだといいます


つまり「嫌」や「損」の反価値をうけたわけです (たぶん)



ところが 彼の弟子たちは

これを「イエスが全人類の罪を背負って死んでいった」とし

イエスを「救世主」(キリスト)

さらには「神」にまで奉ってしまったのです





では「やってみる価値はあるよ」とか

「行ってみる価値はあるよ」というときの価値はどうでしょう?


「やってみる価値があるよ」というのは

「やってみたらどう? 価値を手に出来そうだよ」という意味です



例えば「その商売やってみる価値はあるよ」と言われた場合

その商売を成功させて手にする価値は

お金という自分にとって必要なモノという価値です



また「あのラーメン屋、うまいよ 食べてみる価値あるよ」

と言われた場合

そのラーメンを食べて手にする価値は

おいしいという五感を通して得る満足です





対象に対して、「自分はこの価値を得たい」

あるいは「これは自分にとって価値にならない」

と 心が動く=価値判断 がなされる基準、つまり価値の基準が


その人の「好み」だったり「美意識」だったり

「人生観」だったり「倫理観」だったりするわけです




また、「将来、これこれのためにお金が必要になった」とか

価値とは、なにかの必要に応じて生まれるものです


不必要になったときに、そのモノやコトの価値はなくなります







話を戻します


ここまでの3つは、価値を獲得する対象が

直接的に自分である場合の価値です



これに対して4つ目の価値は

特定の集団や社会で必要とされているモノやコトです



その集団や社会の多くの人に

それが「正しい」とか「善である」とか信じられているモノやコトです



平和の概念、倫理、道徳、社会のルール

常識、マナー(礼儀作法・行儀作法)

学歴、文化、伝統などがこの価値です


さらにこれらがちゃんと機能し

秩序が維持されている状態が「健全」という価値です





この価値は

パラダイム〔ある時代の支配的な考え方やものの見方・

しきたりやしがらみ、常識や人気などといったもの〕と

ほぼ同じと考えてよいでしょう




牧口氏は、価値=幸福の内容 と定義しましたが

この4つ目の価値に限って言えば


幸福の内容というよりも

幸福と思わされているモノやコト

幸福と信じ込まさせている内容というか対象 です







幸福の内容としての価値
幸福の対象としての価値




牧口氏の

【幸福の内容が、価値である】という定義について述べます



確かに

美味しい、心地よい、楽しいなど

五感を通して得る満足に関しては

≪幸福の内容≫(幸福感の内容)ですが



自分あるいは社会にとって必要なモノやコトに関しては

≪幸福の対象≫(幸福を可能にする対象)です



「価値」というと、一番に思い浮かべるのが

自分にとって必要なモノやコトであり

≪幸福の対象としての価値≫です





まとめると

幸福とは→ 価値を得ること→

価値とは→

幸福の対象としての価値と、幸福の内容としての価値がある

ということなり



【幸福の対象や内容が、価値である】ということです




三種類の善




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