緋山酔恭の「価値論」 価値とはなに? 真理とはなに? 事実と真実の違い



価 値 論


q第二章

普遍とはなに?


 




価値の正体 編


( 価値論 根幹部a )





事実と真実の違い



「事実と真実は違う

事実は立場によってさまざまであるが真実は1つである」

という人もいれば


「真実は人の数だけあるが、事実は1つしかない」

という人もいて


「事実」という言葉と「真実」という言葉の区分けが明確ではありません




≪歴史はさまざまであるが、真実は1つである≫

というなら、意味は統一さています (共通認識として成立している)


現存している歴史書は

だいたい戦勝国というか

侵略者側によって書かれた事実ですので

当然、侵略者側に都合のよいものとなっています 




仮に、嘘を書いたり

脚色がなされたりしていなかったとしても

自分の都合のよいレンガ(事実)だけを集めて

家(歴史)を立てたら、それでは真実とは言えないですよね



冤罪事件というのは、それで起きています

(検察側が、都合の悪い事実を隠す)



家を建てるにしても、主張を立てるにしても

そこには都合があって

設計者や立論者の思想なり哲学なりが、潜んでいるということです




さて「事実」と「真実」ですが

こうした区分けが明瞭でない言葉については


要は、最初に【前提】をおいたり

【定義】をちゃんとして

話をすすめなければなりません




哲学の立場に実存主義というのがあります


キルケゴールが祖で、ニーチェもそうで

サルトルによって世界で流行し

20世紀最大の哲学者と称される一人 ハイデガーも実存主義です



【 ハイデガー自身は「実存主義ではない」と言っていますが

サルトルにより実存主義だと判定されたように

彼の考えは、実存主義以外のなにものでもありません 】



実存主義とは、個人の主体性=実存 を重視し

それによって、人間の本来的なあり方を回復するといった立場です


大乗仏教(日本の伝統仏教は全て大乗仏教)というのは

≪自己に内在している仏性を顕現することで、本来的な自己(仏)に到る≫

というのが根本です



つまり、実存主義とは、仏教の焼き直しにすぎません



話を戻します


キルケゴールは

真のキリスト教精神の復興を目指し言論運動を開始して

デンマーク国教会の腐敗を糾弾する小冊子を9号まで刊行し

10号の発刊目前に路上で倒れ、病院で死去したくらいの人ですから


彼のいう「真理」も

結局は、真のキリスト者になるための真理です


「私がそのために生き、死にたいと思うような理念」

が彼の真理です




キルケゴールの実存主義は


≪ 客観的な真理は、自己の外側に立って

歴史や世界を記述するときには有効であるが

主体的生命活動には、意味をなさない

人間の生は、客観的な歴史や世界にのみ存在しているのではない


歴史や世界の内部で、孤独や不安や絶望につきまとわれるなか

自己の行く末を選択し決断しつつ存在しているのである


人間とは、普遍化・抽象化〔共通している性質だけを抜き出して

作り出された1つの概念〕された人間

すなわち本質としての人間ではなく


それぞれの実存(=主体)が、それぞれの人生を生きる

具体的な人間として“いま・ここ”において存在するのである


歴史や世界の内部で

自己の行く末を決断するのは主体であり、主体こそ真理である


人はつねに行く末を決断しなければならない状況にある

このような迫られた現実のなかでの答えこそが、主体性である

人は主体として存在しつつ、つねに問題を解き、真理を生成している ≫


といったところです



キルケゴールが「真理」を客観から

主体へと転換されたことは

哲学史において偉業とされていますが

これは「真理」でなく「価値」です


真理と価値の混同です(笑)





真理は、認識(事実)の概念であって

価値は、評価の概念です



西洋哲学が幼稚なのは

いまだに、真理と価値とを混同して語るところにあります



真理とは、コップに水が入っていて

これを「水である」と言えば≪真理≫だし

「火である」と言えば≪虚偽≫というだけのことです



価値とは、好き嫌い・損か得か、あるいは必要性で

幸福の内容 ( 食べて→ おいしい など、五感を通して得る価値)

だったり

幸福の対象 (自分あるいは社会にとって必要なモノやコト) です


損得のように理性による価値判断もありますが

多くは、感情による判断であり、感情とは価値判断そのものと言えます





「事実」と「真実」に話を戻します


両者は、区分け、差別化が

明瞭でないので

「前提」をおいてから、論じなければなれません



要するに

「真実は人の数だけあるが、事実は1つしかない」

と主張したいならば


どちらを、認識の概念 = 真理 にし

どちらを、評価の概念 = 価値 にして

主張を立てたのか


といった「定義」をはっきりさせて、論じなければなれません




ここをはっきりさせてから論じないので

意味不明で、わけがわからないは話になるのです




価値とは「自分あるいは社会にとって必要なモノやコト」なので


南京大虐殺を肯定したい人たちにとっては

「南京大虐殺はあった」という

事実なり真実は、価値の範疇(はんちゅう)であって


南京大虐殺を否定したい人たちにとっては

「南京大虐殺はなった」という

事実なり真実は、価値の範疇である ということです



プロパガンダやパラダイムの中でしか

生きていない人にとって

最も優先されるのは

歴史の真実(真理としての真実)などではなく

「自分の国は正しい」という信条(価値としての真実)です



信条を正当化するために、最初に結論ありきで

そこに向かって、都合の良いレンガだけを積み上げ

主張を立てているということなのです




第二章 普遍とはなに?巻

【 普遍と価値 編 】

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