緋山酔恭の「価値論」 価値とはなに? 真理とはなに? 普遍とはなに?



価 値 論


q第二章

普遍とはなに?


 




普遍と価値 編




普遍の正体



普遍とは「普遍妥当性」と言われるように

妥当性をもつこと つまり多くの人が正しいと考えていること


多くの人が共通して持っている意識、道理のことです


その反対は、ドグマ(独断・独善)です



但し「普遍」は、「真理」とは違って、間違えていることもあります



例えば、かつては、天動説が普遍したが

天動説は間違えと分かり、今では地動説が普遍となっています



これに対して「真理」に間違えはありません


かつても今も真理は地動説であり

かつては虚偽である天動説を、真理である

と思い込んでいたのにすぎないのです



≪普遍≫について、さらに掘り下げて考察していきましょう





西洋哲学においては


「普遍」(妥当性)と「真理」(絶対性)を

ごっちゃに語るところから


「普遍」(妥当性)がすぎると、ドグマ(独断)に陥るなどと

訳のわからない解釈が、しばしばなされています



整理しておくと

「真理」の反対は「虚偽」

「普遍」の反対は「ドグマ」(独断・独善)あるいは「特殊」です



「普遍」とは「パラダイム」(ある時代の支配的な考え方)

に近い概念とも言えます






西洋哲学においての【普遍】とは

食パン、あんパン、クリームパン、メロンパンに存在する≪パン≫とか

りんご、ケチャップ、口紅、金魚には≪赤い≫とかいったものです


つまり多くのものに共通する○○という性質のことです


あんパン、食パン、クリームパン、メロンパン

りんご、ケチャップ、口紅、金魚 は【特殊】といいます




この普遍を、プラトンやアリストテレスは

「存在を、存在としてたらしめるもの」と考え

イデア(プラトン)や、エイドス(アリストテレス)と呼んでいます




プラトンの場合、超自然的なイデア界があり

個々の事物は、イデア界の「イデア」によって

作られると考えたました


つまり、りんごというイデアがあって

それによって、りんごが作られていると考えたのです







アリストテレスのエイドス



アリストテレス(前384~前322)は

プラトン(前427~前347)の弟子です


マケドニアの王 アレクサンドロス大王の家庭教師でもあった人です


彼は、プラトンのアカデメイア(学園)に入門し

その後は教師として在籍しました



しかし、しだいにプラトンのイデア論に批判的見解をもつに至り

プラトンの死後、アテネを去り


のちのアレクサンドロス大王の家庭教師となり

その後、アテネに、学院 リュケイオンを建設しています



アレクサンドロスが王位につくと、彼の財政的支援で

学院は大いに繁栄したといいます


しかし、大王の死後、反マケドニア運動がおこり

マケドニア人であったアリストテレスはアテネから追放され

母の故郷 エウボイア島に逃れ、翌年そこで没したとされます





アリストテレスの研究は、倫理、自然、天体、生物

霊魂、政治、詩など、とても多様です


前4世紀の段階でこれだけ広範な研究をした人は

彼の他にはいないとされています


動植物から、天文・気象に至るまできちんと観察し

性質や特徴を整理していき、知識を体系化し

現在の科学の基礎を作り上げたとされています



なので彼は、"万物の祖"と言われています



これは学院にすぐれた研究機関を持ち

博物館や図書館などを備えていたからこそなしえたようです






アリストテレスは、事物の本質は

イデア界などという超自然的なところではなく

事物自身に内在するとしました



彼がいう事物の本質が、形相(エイドス)です


形相とは「これは何であるか」を規定し

現にあるとおりのものとして存在させている原理です




つまり、形相(エイドス)は

プラトンのイデアと同じ原理のものなのですが

イデアのように超自然的なものではなく

事物に内在するということです


りんごの中にあって

りんごをりんごたらしめている原理が形相です




それから形相に対して、質料(ヒュレ)という概念を置きました

質料とは「これは何からできているか」を規定する原理です



例えば、木の机があったとします

すると木が質料で、机が形相ということです


石の机は、形相は同じ机でも、質料が異なります


木の机と木の椅子なら、質料は木で同じですが

形相が違うということになります



そして、形相と質料は切り離すことができない

形相がイデアのように質料から離れて存在することはない

というのがアリストテレスの主張です




すると、形相は、机が作られて

はじめて事物のなかに生まれるのでしょうか?


そうではありません



ならぱ形相は

机がつくられる前は、職人さんの頭の中にあったということでしょうか?


ただその職人が世界ではじめて机を作ったのなら別ですが

それ以前から机は作られてきています



つまり机という形相は

その机ができる前から存在していたということになります




では、その机が作られる前は、形相はどこにあるのか?

イデア界のような超自然的世界でないとするとどこにあるのか?



アリストテレスは、机が作られる前から

机という形相が、質料の中に「可能性」というかたちで

存在していると考えました




でも、あさがおの種ならば

あさがおの花になる可能性をもっていて

チューリップの花は絶対に咲きませんが


材木という質料は、机になる可能性も

椅子になる可能性も、船になる可能性もあるのでは?

という話になりますよね



そこでアリストテレスは、質料に

可能態と現実態という概念を持ち込んだのです



材木は、机の可能態であると同時に

椅子や船の可能態でもある

職人がつくる現実の机が、この材木の現実態である

としたのです






こうした≪事物の本質≫とか

≪事物に共通する性質や特徴≫

という意味の「普遍」を、仏教において語ると



仏教では、すべての存在が「空」

(変化してやまない・一瞬一瞬変化している)

と、考えるので「空性」(無常性)が、普遍ということになります



また、日本の大乗仏教においては

すべての衆生が「仏性」を内在しているとするので

「仏性」が、普遍ということになります







演繹法と帰納法



論理学というのは

かつては哲学の一分野とされていました



論理学とは、正しい結論を得るために

どのような思考方法が妥当であるかを研究する学問です




論理は、前提、推論、結論で成り立りたちます


A=B(前提1)、B=C(前提2) ならば(推論)

A=C(結論)というものです




最もよく知られている論理の形式が

多くの具体的事実から共通点をさぐり、結論を導き出す

「帰納法」(きのうほう)と


一般的、普遍的な事実をおしひろげ、結論を導き出す

「演繹法」(えんえきほう)です




演繹法は、アリストテレス(前384~前322・

古代ギリシアの哲学者)によって考案され


帰納法は、ベーコン(1561~1626・イギリスの哲学者

「知は力なり」とイデア論で知られる)や


ミル(1806~1873・イギリスの哲学者

ベンサムの功利主義を継承)によって確立されたといいます




帰納法、りんご、バナナ、みかん、イチゴといった特殊から

≪果実≫という普遍を導き出していくといったものです




演繹法は、結論をおしひろげて説明します


≪果物≫という概念を認めるならば

りんごも果実、バナナも果実、みかんも果実

イチゴも果実 というように

普遍を、特殊にあてはめていくものです




演繹法の最も基本的形式が

「三段論法」です


前述した

前提条件 A=B  B=C →  結論 A=C です



演繹法は、A=B  B=C という法則(公理)から

A=C という新たな法則を、導き出していくわけです



演繹法は、前提条件が正しければ

導き出される結論も必ず正しくなります


これは、演繹法は

前提条件 A=B  B=C を

A=C に、言い変えているだけだからです




A社製のテレビが壊れた デジカメが壊れた パソコンが壊れた

だから「A社製は全て壊れやすい」というのが帰納法です


1つ1つの特殊→ 普遍を導きだすのが帰納法です




演繹法は、前提を認めるなら

結論もまた必然的に認めざるを得ないという推理方式です


「A社の製品は全て壊れやすい」(普遍)

だから「A社製のプリンタは壊れやすい」(特殊)というのが演繹法です



「我思う(前提)、ゆえに我あり(結果)」も演繹法です





演繹法と帰納法は、科学的にものごとを考える方法として

現在の科学や数学にも大いに取り入れられています




帰納法の欠点は、統計論を前提とするので

新たな事実が1つでも加われば、結論が簡単に崩れてしまうこと

カーナビが壊れにくいということになれば

「A社製は全て壊れやすい」という結論は崩れてしまうわけです




演繹法の場合、大前提・小前提・結論の

三段論法が代表的なものです


例えば、大前提で「生きとし生けるものは全て死ぬ」

小前提で「人間は生き物である」とすると

結論は「すべての人間は死ぬ」となります


つまり前提を認めるなら、結果も認めざるを得ないという論法です


この演繹法の欠点は、前提に誤りや偏見があれば

結論は間違ったものになることです







2つの普遍



「A社製は全て壊れやすい」(普遍)


これが≪多くの人の共通認識≫という普遍にしろ

≪事物に共通する性質や特徴≫という普遍にしろ

普遍は【共通性】をもつということです



≪多くの人の共通認識≫とは

多くの人の「主観」における共通性ということです



≪事物に共通する性質や特徴≫とは

事物すなわち「客体」(客観)における共通性ということです



つまり「普遍」とは

【共通性】を基盤とした「概念」であるということです





そして、重要なことは「これは猫である」とか

「太陽が地球の周りを回っている」とかいった


≪多くの人の共通認識≫は、妥当性をもつというだけで

その普遍が、真理なのか、虚偽なのかは

また別の話であるということです




これに対し

「りんご、みかん、レモン、バナナがもつ果実性」とか

「りんご、ケチャップ、口紅、金魚がもつ赤性」とかいった


≪事物に共通する性質や特徴≫は

これら事物の共通性(普遍)であるとともに


これら事物の本質(あるいは属性)でもあり

これら事物における真実=真理であり

これら事物における絶対性でもあるのです




以上のように

西洋哲学においては


共通認識という≪妥当性の普遍≫

プラトンのイデアを源流とする≪真理としての普遍≫


この2つ違った「概念」をもつ『普遍』があるにも関わらず


当の西洋哲学が、その違いを理解せず

「真理」と「普遍」をごちゃごちゃにして語るのです





ちなみに、バラモン教および

バラモン教が変貌して成立したヒンズー教における

六派哲学(正統と認められている6つの学派

あるいはその哲学体系)の

ヴァイシェーシカ学派では


普遍とは、ある犬と別の犬を見たときに

どちらも犬であると認識させる犬性など

個別の間に同類の観念を引き起こす原理


特殊は普遍と反対で

個別の間に異なる種類や個別の観念を引き起こす原理

としています



つまり、みかん、伊予柑、ポンカン、オレンジに存在する

「みかん」は『普遍』であるが


バナナ、レモン、みかん、りんご、桃における

「みかん」は『特殊』ということになります




価値と相対




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