緋山酔恭の「価値論」 価値とは? 真理とは? フランクルの価値と人生の意味



価 値 論


q第二章

普遍とはなに?


 




普遍と価値 編




フランクルの価値と人生の意味



ロゴセラピーという「人生の意味を見出す」ことによって

心の病を癒す心理療法があります



創始者は ヴィクトール・フランクル

(1905~97・オーストリアの精神科医、心理学者)です



フランクルは

フロイトに師事し、精神科医としてだけでなく

脳外科医としても一流であったそうですが


ナチスによる迫害で、家族と共に強制収容所に送られ

父母、妻は、収容所で亡くなっています




彼は、「価値」は3つに分けられるとしました



1、創造価値

職業や趣味などを通して得られたり、実現できる価値



2、体験価値

人や自然、芸術などと触れ合う体験によって

得られたり、実現できる価値



3、態度価値

自分に与えられた運命に対してどういう態度をとるか

それによって実現されてゆく価値





価値の分類自体は、おそまつです


1の例として、お茶汲み、コピーとり、清掃などでも

助かる人、快適になる人がいる といったことがよくあげられますが


それが、自分にとっての価値なのか

他者にとっての価値のなのか  社会にとっての価値のなのか

ごっちゃになっていて実体がさっぱり分りません



価値は、評価の概念なので


Aさんがある絵を書き、「よくできた」

「会心の出来栄えだ」と評価すれば

Aさんにとって、この絵に価値が創造さたことになります


Aさんが、「ダメだ」「破り捨ててしまおう」と評価すれば

Aさんにとって、この絵に価値は創造されていません


ところが、Aさんが、ダメだとした絵に

Bさん、Cさん、Dさんが「素晴らしい」(心の満足)

また「手にしたい」(必要)と評価を与えれば

Bさん、Cさん、Dさんにとって、Aさんの絵に価値が創造されます


価値の創造の原理は、このようになっているのです



能力のあるA子さんにとって

お茶汲み係は価値(必要性)ではないが

男性社員にとって、美人のA子さんが、お茶汲み係であることは

価値である場合もあるし


B子さんにとって、お茶汲みは価値的な仕事であっても

男性社員の評価が、「B子さんの入れるお茶はまずい」

「A子さんのお茶は美味しかった」という場合もあります



1は、自分にとっての価値なのか

他者にとっての価値のなのかということもありますが

モノやコトの創造と、価値の創造との違いもよく分っていないようです




2は、主として、五感を通して得られる心の満足

という価値のようですが、1との区別が明確でありません



3は、信条や信念、倫理観や人生観などといった

自分にとって必要なコトという価値の上に成り立つ「態度」です


態度そのものは価値というより「意志」に近いもので

意志とは「こうしたい」「こうありたい」というものであり

「欲求」に近いものです





ただ、フランクルにおいて重要なのは

「価値論」ではなく、彼の体験から生まれた「人生論」です



【 人生には「宿命」「運命」とも言えるものもあり

このような「与えられたもの」に対して

どういう態度をとり、生きていくかによって、人生の真価がわかる 】


【 態度価値だけは、他の二つの価値とは異なり

いかなる苦境に追い込まれ、可能性が奪われても、実現できる

この価値は、人は息を引き取るその瞬間まで

人生から意味をなくすことなく生き続けられる 】



≪いかなる苦境に追い込まれ、可能性が奪われても、実現できる≫

これは「尊厳」と言ってよいでしょう





日本語版サイト「尊厳論」において

このように↓書きました



【  酔恭  人間に尊厳があるなら

サルにだって猿権(えんけん)という尊厳があるだろうし

犬にだって犬権(けんけん)という尊厳があるだろうという話になる(笑)


だって、猿にだって、犬にだって、すずめにだって

地球を分割する権利はあるはずだからね(笑)



竜太  なるほど(笑)

でも、サルには尊厳はないと思うよ

生命として生まれてきた以上

動物にだってこの世界で快楽や平穏を得る権利はあるとは思う


だけど動物が生命維持や子孫を残すことだけのために

毎日の時間を費やしているのに対して

人間はそれだけではなく、自分の生き方を持っているでしょ


たとえそれが他者からの洗脳による無知に根ざしたものだったとしても

「信念」を持って生きることができる

誇りを持って生きることができる



仲間を守って死ぬとか、戦争に行って身代わりになって死ぬとか

さらには拾ったお金交番にとどけるとか

こういった行為は生命維持だけを考えるとじつに非合理だよ

でもそこにこそ“尊厳の根源”があるんじゃないかと感じる



酔恭  確かに、動物は「いかにに生きるべきか」が

種(種の保存)に任されているのに対し

人間の場合、個人(自己保存)に任されているような気がするね



竜太  実際には人間も種の保存の原理で存在していたとしても

信念や誇りを感じて生きることができる


尊厳という概念が生み出された根源に

“人間は生き方を持っている。信念を持って生きることができる

誇りを持って生きることができる”ということがあるはずだよ


“生き方を持っている。信念を持って生きることができる”

というのは、意志の尊重と実行、つまり「自由」のことだね


それに「自分の秩序」でもあるよ

だから、尊厳(自分の秩序)を棄ててしまった人って怖いよね 】




カントも、フランクルも

「尊厳」を最大の価値としたわけですが


尊厳とは何かというと

結局、「自分の存在の根拠」であり

救済原理〔自分を成り立たせている根源的な論理〕である

ということです




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