緋山酔恭の「価値論」 真理とはなに? 観念の塊の哲学 ヘーゲルの絶対精神



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 観念の塊 編 】




ヘーゲルの絶対精神



ドイツ観念論の哲学者 ヘーゲル(1770~1831)は

≪現象世界の全ては、絶対精神の自己表現≫

≪歴史は絶対精神が、自己(絶対精神自身)を認識する過程である≫

なんていう宗教とあまり変わらない思想を立てています



彼のいう「絶対精神」とはなんでしょう?


≪宇宙の根源的な原理≫

≪全てを成り立たせている存在≫ のことでです


つまり、一神教でいう「神」

日蓮仏法でいう「南無妙法蓮華経」と同じです





ドイツ観念論というのは

世界は、神や宇宙精神などと呼ばれる

絶対的原理(観念的原理)の自己展開であるとするところに

特徴があります


これによって主観、客観の対立を乗り越えようとした

とされていますが


まさに、≪観念≫(主観)の塊のような話です


このドイツ観念論の完成者が、ヘーゲルとされています





なお「観念」と「概念」は

どちらも「〇〇とはこういうものだ」

という認識、思考内容ですが


観念は、概念よりも、主観性が強く

概念は、観念よりも、客観性、共通性、普遍性をもつとされます



また「概念」は、愛の概念とか、神の概念というように

言葉を前提として

その言葉の指し示す意味として語られます





また「あなたの話は観念的だ」とか

「あの人の話は観念論にすぎない」と言った場合


観念論とは

≪現実を考えずに頭の中だけで作り上げた考え≫ということです





哲学でいう「観念論」とはどんなものなのでしょう


≪我々の精神的存在=心=観念 だけを

世界の本源的な存在とし


外界は、観念(心・精神)で認めた

仮象の世界にすぎないとする認識論≫


ということですから

唯心論とほぼ一緒ということになります





イギリスの哲学者

バークリー(1685~1753・アイルランド国教会の主教)は

「存在することは知覚されることである」という言葉で知られます



彼は、存在の客観性を否定し

実体は、知覚する精神であるといいます


さらに、究極的には、世界は神の観念にすぎないとしています


このような彼の立場を「主観的観念論」といいます





これに対し、ドイツ観念論の

ヘーゲル(1770~1831)、シェリング(1775~1854)のそれは

「主観と客観が対立せず同一である

とみることが、最高の知識(絶対知)だ」と主張していて

彼らの立場は「絶対的観念論」と呼ばれています






また、カント(1724~1804・

ドイツの認識論と道徳論の哲学者)は

それまでの「認識は対象(客観)にしたがって行われる」

という考えに対して


認識を構成するのは、主観側にある

主観が客観に従うのではなく、客観が主観に従い

「主観が客観を可能にする」と主張し


カント自身この発想を

地動説をはじめて唱えたコペルニクスにちなんで

「コペルニクス的転回」と呼んでいます



こうした、カントの立場は

先験的観念論とか、超越的観念論と呼ばれています


先験的とか、超越的とかいうのは

経験に先立ち、認識を構成する形式を主観が能力としてもっている

ということです






カントの考えなら「まとも」な感じを受けますよね


しかし、カントは、世界を、経験可能な「現象」(モノやコト)と

経験不可能な「物自体」(ものじたい)に区別し


「物自体は知ることはできないが、現象を可能にするものとして

物自体が存在しなければならない」としています



「物自体」とは、経験の背後にあり、経験を成立させるために

必要な条件や存在ということです



知覚したり、認識したりすることができない存在ですが

認識されるモノやコトの背後にあり


物自体がないと、モノやコトを認識したり、経験したりできないのです



この「物自体」という発想は

プラトンの「イデア」なんかが源流と考えられています





さらに、カントは、経験可能な「現象界」と

物自体が属する世界の「叡智界」に分け


人間は「実践理性」(良心)という善性、道徳的作用によって

経験的な知覚では把握できない超感覚的な世界「叡智界」

に、参入できるとしています


仏教でいうところの「悟り」の世界まで説いてしまっているのです(笑)






話を戻します


ヘーゲルは、宗教で「神」や

「宇宙の根本原理」などと呼ばれている

全てを成り立たせている絶対者を


「絶対精神」とか「絶対理性」とか「世界精神」

という言葉で表現しています




彼の主張は、≪絶対精神が無限であるなら

有限の世界、すなわちこの宇宙全体を内包するはずである≫


≪絶対精神は宇宙を内包するゆえ、有限なものと無関係ではない

有限なものを通して自己を展開しているはずである≫


≪すなわち、この世界の有限なもの、今ここに存在する全てのものは

全て絶対者の自己展開の過程として現れている≫

といったところです




ただ1つ面白いところは

彼のいう絶対者は、唯一なるものではあるけど

完全なるものではないのです


なぜなら、ヘーゲルは

≪世界の歴史は絶対者が自己展開していく過程だ≫としているからです


つまり、過程の神ということになり

全知全能=完全ではないということになります



それから≪絶対者が有限なものを通して自己を展開している≫とは

絶対者が自らを有限化して自己表現していることになります


いうなればこの世界は、画家(絶対精神)が

キャンパスに内なる精神を表現しているようなものです





また、コップやペンなどには、精神かないとするならば

コップやペンは、自己を認識することができません


すなわち、精神の基本的な働きの1つに「自己認識」があります



絶対者を「精神」だと考えたヘーゲルによると

≪絶対者の有限化は

絶対者が自己の本質を自覚する過程だ≫といいます



なので、≪絶対者は自己の精神を有限化すること

自己実現(自己を現実のものとすること)によって

自己を認識しようとしている。その過程が歴史である≫

ということになります





自己の精神を表現する自己実現が

自己を認識するっていうのはどういう意味?



ヘーゲルは、人は他者との関わりあいのなかで

自己の精神をなにかの形に表現すること

(ヘーゲルはこれを自己外化と呼ぶ)

すなわち自己実現することで、はじめて自己を認識できると考えたようです


それを神のような絶対者に適応したわけです




すると、宇宙の原理である絶対者は

いずれ完全に自己を認識するというのがヘーゲルの立場にならないか?


最終的にはそういうことになると思います





なお、自然に一定の目的があることを説いた理論を

「自然の合目的論」といいます


宇宙に目的があるとか、地球は目的をもつとかいった話ですが


ひいては、石、花、人間といった

自然界の存在にも適応できるはずです



「自然の合目的論」に対しては

自然に一定の目的性、方向性を見るのは

自分の「生」に重ねて自然を見ているからで

客観にもとづかない、主観的な判断である

との批判があります



いずれにせよ 宇宙の原理を人間の精神のような存在と考える

ヘーゲルの思想は、宇宙の合目的論の最たるものと言えます







弁証法とは、哲学の用語であり

現代の弁証法は、ヘーゲルによって定式化されました


マルクスの弁証法も、それを継承しています



「ヘーゲルの弁証法」とは

第1の段階が、ある概念や主張をたてるテーゼ(正)

第2の段階が、その概念や主張に対して

正反対の概念や主張をたてるアンチテーゼ(反)

第3の段階が、正と反の矛盾を統一または総合するジンテーゼ(合)



こうして全てのことがらは、低い段階の否定を通じて高い段階へと進む

高い段階には低い段階が保存される

〔これを「止揚」(アウフヘーベン)という〕


というものです



なんだそれだけか! という話になりますが


彼の弁証法が有名なのは

≪あらゆるものは運動し変化し発展する

その運動の法則が弁証法そのものである≫

としたところにあります


だから≪世界の歴史は、弁証法という法則にのっとって

絶対者が自己実現する過程だ≫

というのが、ヘーゲルの弁証法の根幹です





マルクス(1818~83・

ドイツの社会主義哲学者。経済学者)は


ヘーゲルの思想が「逆立ちしている」と批判し

ヘーゲルの絶対者を物質世界に置き換えて

マルクスの弁証法(弁証法的唯物論)を確立しています



ヘーゲルが「歴史は、弁証法的に絶対精神が発展してゆく過程である」

としたのを


そうではなく「歴史とは、弁証法的に物質世界が発展してゆく過程であり

物質の発展にともなっておこる人間あるいは

生物の思考が増大してゆく過程である」としたのです




具体的には


≪ 未開社会の段階と文明社会の段階では

人間の思考の質は当然ちがう


だから人間の思考は社会で決まる

社会は、科学技術や生産様式より決定される


すなわち、どのような

社会=科学技術や生産様式 であるかが

社会の成員である人間の知識、思想、文化などを決定する ≫



≪ 人間の知識が向上すると、科学技術が発展し

これまでの生産様式=資本主義 とは対立す立場 (アンチテーゼ)

が登場する

これによって、社会が変革されてゆく (ジンテーゼ) ≫



≪人間の社会や歴史が弁証法的に進化している≫


≪資本主義は必然的に共産主義へと発展してゆく≫


というのが、マルクスの弁証法です



人間の知識と、生産様式と、思想や文化とは

相互に関係していて、ともに発展していくという話なのです



シモーヌ・ヴェイユの自己否定




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