【 観念の塊 編 】 デカルトの詭弁を暴く ≪人間の思考は、ものごとを合理的に理解したいと願い 合理的に理解しようと働く またそのようにできている≫ と、考えられています 合理的とは、道理や論理にかなっているさまをいい 秩序性そのものです つまり、世界を、思考の「合理性」「秩序性」の枠組みのなかで とらえようとするのは人間の本能であって それによって、我々の精神は保たれているということです 「我思う、ゆえに我あり」で有名な デカルト(1596~1650)は、大陸合理論の代表とされています 「我思う、ゆえに我あり」という「〇〇だから、〇〇だ」は 合理的な思考である と言えますが 大陸合理論の「合理」は、神や世界をも 合理的、理性的に説明するところに特徴があります デカルトは 【 私が疑うということは 私が「不完全」な存在であるからであるが 「不完全」ということを知るためには 「完全」という観念を、前提としなければならない しかし、不完全な私が、完全という観念を創造できるはずがなく これは完全なる存在が、私に植え付けたものであるという他にはない それゆえ、完全なる存在=神 は存在する 】 と述べています 「完全」を「無限」、「不完全」を「有限」と言い換えて 【 我々の知は、「有限」であって間違いを犯すが 「有限」であるということを知るためには 「無限」の観念が、あらかじめ与えられていなければならない しかし、有限の私が、無限という観念を創造できるはずがなく これは無限なる存在が、私に植え付けたものであるという他にはない それゆえ、無限なる存在=神 は存在する 】 とも、論じています デカルトによるこの「神の存在証明」は “スコラ哲学の父”と呼ばれているのが アンセルムス(1033~1109)のそれとともに 「存在論的証明」の代表とされています 〔 スコラ哲学とは、中世に、ヨーロッパの教会・修道院に付嘱する 学校、大学の神学部で、行われた神学的な哲学 〕 「存在論的証明」とは ≪神は完全である≫と語られるとき 神は「存在」しなければならない なぜなら存在したほうが、より完全だからである という定義のもとに、神の存在を証明しようとするものです アンセルムスの「神の存在証明」とは 【 我々は「最大の存在者」を、頭の中で考えることが可能だが この「最大の存在者A」が、Sの数の属性を持っていたとする これに対し「存在者B」は、「存在者A」とまったく 同じ属性を持っていて さらにもう1つ≪実際に存在≫という属性を持つとする すると、「頭の中の最大の存在者A」ではなく 「実際に存在する存在者B」こそが ≪可能な存在者の中で、最大の存在者≫である ゆえに≪可能な存在者の中で、最大の存在者≫は 我々の頭の中にあるだけでなく、実際に存在している この最大の存在者が「神」である 】 というものです デカルトはこのアンセルムスの考えを継承し 「≪完全≫な神の観念には、≪存在すること≫も含む」 とも論じています しかし、≪可能な存在者の中で、最大の存在者B≫も 頭の中(思惟)の存在者でしょ という話になりますよね(笑) デカルトは、疑う余地が少しでもあるならば 疑う余地があるとして、徹底して否定していくという 「方法的懐疑」という合理的な手法で 疑えるものを排除していった結果 疑うことのできない真実として 【我思う、ゆえに我あり】という 哲学の第一原理に到達といされています このことから、合理主義の代表とされていますが アンセルムスにしろ、デカルトにしろ 「合理的な思考」なんかではなく「こじつけ」であり「詭弁」です デカルトは ≪神≫という言葉のもつバーチャルな世界を利用して または、≪神≫という言葉のもつバーチャルな世界にだまされて ≪神≫とか≪完全≫とか≪無限≫という言葉に また新たなバーチャル世界を積み上げたにすぎません そして、そうした世界を あたかも【真理】のごとく、語っているということです デカルトの思考がそうであるように 人間の思考は、合理的にものごとを考えるようにできている というのは、表層的なことでしかなく 本当は、合理的にものごとを考えることができないのです なぜなら、言葉にだまされてしまうからです デカルトは、ものごとを探求する方法を 4つの規則としてまとめています 1、真であると認められるもの以外は捨てよ (明証) 2、考える問題を出来るだけ小さくせよ (分析) 3、単純なものから複雑なものに到達せよ (総合) 4、全体を見直しなさい (吟味) このうち「考える問題を出来るだけ小さくせよ」ということが 最も重要であるはずです デカルトは「神」という言葉の世界に含まれる 「完全」とか「無限」とかいった概念を根拠として 神の存在証明を試みています ところが「完全」とか「無限」という言葉に対する 吟味=分析がなされていないのです 完全とは? で、以下のように、書きました 竜太 デカルトは明らかに間違えだと思うな。。。 「完全」という観念は、神なんかと全く関係ないだろう 完全とは、10個あれば満足する 完成する という定義があって 10個そろえることだと思うけど・・・ だから、数字と「完成」という概念から成り立つもので 人類が「1」という数字を発明したときに 「完全」という概念というか観念が誕生したんだと思うよ 酔恭 なるほど… これ(1)と、これ(2)と これ(3)を攻略すれば、あいつに勝てるという状況で 全てクリアーできたら「完全」というのも同じだな 〔 (1) (2) (3) は 我々が、数字の概念をもつことを意味する 〕 竜太 「よく完全な人間なんていない」と言うのは やさしさとか、思いやりとか、つつましさとか 勇気とかいったものは数字化できないからだと思うよ もし、数字化できたら、やさしさ=3、思いやり=3 つつましさ=2、勇気=2、合計して10になるから あの人は完全な人間だなんてなるだろうけど・・・ 竜太 それから、人は、全部手に入れて「完全」を達成すると 同時に、失う怖さをいだくから 「完全」にはなれないなんて考え方もできるよ こうした考え方をすることが 真の「思考の合理性」であって そこには、≪言葉の吟味≫をしないと至れないのです 「万物の根源は数である」(ピタゴラス)といったって やさしさとか、思いやりとか、つつましさとか 勇気とかいったものは数字化できないのです(笑) デカルトの立場は 考える私(精神)と、肉体を含めた外界の物体は それぞれ独立するという「物心二元論」です また、人間の心は「タブラ・ラサ(白紙)」で 人間の認識は全部経験に由来する感覚的なものである という経験論に対し デカルトは「生得観念」〔しょうとくかんねん・ 先天的に持っている観念。神や自我についての観念など〕 の存在を認め (自我とは他者や外界から区別して意識される自分) 真の認識は経験に基づかない先験的な「理性」の働きによる 感覚や感性による認識は低い認識であると主張しています デカルトの「理性」というものも パルメニデスのいう「理性」とほぼ一緒と考えてよいです つまり、宗教でいうところの「霊魂」に近いのです それから実体に 物理的実体と、心的実体の2つを置き 【 動物には理性が 人間より少ないばかりでなく、理性がまったくない ゆえに精神(心)は人間だけに存在し 動物、植物は機械的運動をしているにすぎない 動物はゼンマイをまいた自動機械である 】 とアホなコトを述べています(笑) パスカルのバーチャル思考 絶対主義VS相対主義の答え (ひとつ戻る) |
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