【 悟りとはなに? 編 】 ( 価値論 根幹部b ) 絶対主義VS相対主義の答え 絶対的な真理や価値の存在を主張する絶対主義と 真理や価値は人それぞれで 絶対的な真理や価値を認めない相対主義の対立は プラトンのイデア論(絶対主義)と ソフィスト(当時のギリシア哲学者)たちの相対主義 との論争を源流とします 絶対主義は、ヘーゲルの「絶対精神」(宇宙精神)で頂点をむかえます ヘーゲル(1770~1831)は ≪現象世界の全ては、絶対精神(宇宙精神)の自己表現≫ ≪歴史はその絶対精神が 自己(絶対精神自身)を認識する過程である≫ なんていう宗教とあまり変わらない考えに陥っています 一方、相対主義は、経験主義を経て、懐疑主義へと至り イギリスの哲学者 ヒューム (1711~76・デイヴィッド・ヒューム 歴史学者。政治思想家) の「因果論」において頂点をむかえます ヒュームは、「因果関係」は 「気のせい」「思い込み」と否定したわけです そして、西洋哲学において この「絶対主義」と「相対主義」という問題は 今もなお、乗り越えられず、くすぶり続けているのです なぜ、今もなお、乗り越えられないのでしょうか? 「真理」と「価値」を、ごっちゃにしているからです 絶対主義と、相対主義についての 最終的な答えをいうと ≪絶対的な価値≫ ≪究極的な真理≫が あるとかないとかいうのではなく 宇宙のことが全て分からずに ≪絶対的な価値≫ ≪究極的な真理≫ として 「神」あるいは「宇宙の根本原理」や「宇宙根源の法則」 を、定義したところで また、主体(自己)に ≪絶対的な価値≫ ≪道徳的な原理≫として 「仏性」や「尊厳」が内在すると、定義したところで 主観=価値=相対になってしまうということです なので、 ヘラクレイトスの「ロゴス」も パルメニデスの「ある」も プラトンの「イデア」も ヘーゲルの「絶対精神」も カントの「尊厳」も 新カント派の「真・美・善」も キリスト教の「神」も 釈迦の「縁起」も 禅の「真如」も 日蓮仏法の「南無妙法蓮華経」も・・・・ 全て、主観=相対=価値=必要性 でしかないということです 【 観念の塊の哲学 編 】 デカルトの詭弁を暴く ![]() 平行線も直角三角形も存在しない (ひとつ戻る) |
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