【 釈迦と禅と天台 編 】 禅宗の「悟り」について 禅宗によると ある時、釈迦が一枝の花房を手にとって弟子たちに示したところ 迦葉(かしょう)だけがその意味を理解して破顔微笑したとされます 【 迦葉… サンスクリット名 マハーカッサパ 舎利弗(しゃりほつ)、目連に次ぐ釈迦の高弟 舎利弗と目連は釈迦より前に没し、釈迦没後の教団指導者となった 】 これを「拈華微笑」(ねんげみしょう)といいます 禅宗ではこの迦葉を初祖として 真実の教えが≪以心伝心≫(いしんでんしん)により 代々伝えられ、28祖の達磨(だるま・禅宗の祖)に至ったと 主張しているのです 【 達磨(?~530?)… 菩提達摩。サンスクリット名 ボーディダルマ 生涯については伝説的なところが多いが 南インドの香至国の第3王子で 中国に入り、少林寺で壁に向かって 9年間坐禅し〔面壁九年(めんぺきくねん)という〕、悟りを得たとされる 】 なお「拈華微笑」の話は「大梵天王問仏決疑経」 (だいぼんてんのうとうぶつけつぎきょう・2巻。訳者不明) にありますが この経典は、唐代の経録(全ての翻訳経典の目録)である 開元録(730)や貞元録(800)に見られないことから それ以後、中国でつくられた経典であると考えられています こうした「拈華微笑」を歴史的な根拠とし ≪釈迦の本意は、釈迦の言葉(すなわち経典)によって 伝えられてきたのではなく (仏祖不伝) 経典とは別に以心伝心により、代々受け継がれてきた 言葉では真実の教えを表現することができないし 言葉は真実そのものでもない 経文は役に立たないので用いない≫と 「教外別伝・不立文字」(きょうげべつでん・ふりゅうもんじ) を主張するのが、本来の禅宗です つまり、釈迦の言葉(教説)を否定するところに特徴があるわけです そして、教外別伝・不立文字を根拠に 実践(坐禅)による 「直指人心・見性成仏(顕性成仏・見性得達)」 〔自分の心が本来、仏性そのものである それを見極め、悟りに至ること〕を主張するのが、禅なのです 自分の心が本来、仏であることを 「坐禅によって悟れ」といっても その前に「仏」ってなんですか? ということになります また、それを明示しないで 「私は悟った!」と言ったところで それこそ、自己の『心』を基準とした 客観性に欠けるものになりませんか? という話になりますが(笑) そこは置いておきます 禅宗では「教外別伝・不立文字」を立てていますが 現実には、達磨自身が、楞伽経(りょうがきょう)を注釈した 楞伽経疏(りょうがきょうしょ・5巻)を著し これを依りどころとせよとしています また、日本の臨済宗(臨済禅)では、楞伽経の他にも 首楞厳経(しゅりょうごんきょう) 円覚経、金剛般若経をたよりにしてきたようで 現在では、大般若経、金剛般若経 般若心経などが読誦されているといいます 一方、曹洞宗(曹洞禅)でも 道元(1200~53。日本曹洞宗の祖)が 「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)を著しています また、般若心経、観音経〔法華経の第25品の 観世音菩薩普門品(ふもんぼん)を独立させたもの〕 大悲呪〔だいひじゅ・千手観音大悲心陀羅尼 大悲無礙(むげ)神呪、悲神呪などともいう 大悲心陀羅尼経にみられる千手観音が説いた 陀羅尼(だらに・梵語の呪文)で、無量の功徳があるという 檀家の仏事にもよく唱えられている〕 なんかが読誦されているらしいです 【 正法眼蔵… 禅の真髄を漢字仮名交じり文で書いたもの 道元は一説によると100巻本を目指したとされるが 87巻(新草と呼ばれる12巻本と それ以前に編集された旧草と呼ばれる75巻本) を編集したところで没した 12巻本と75巻本は重複しないのであわせて用いる 】 それから禅宗では 語録〔高僧の行履(あんり・日常の言動)、弟子に行った説法 他の禅僧と交わした問答などを口語のまま記録、編集したもの〕 が盛んにつくられ、読まれています こうしたことから 「禅宗は文字を立てないと言いながら 言っていることとやってることが違う。自語相違である」とか 「釈尊の経文は信じないのに、祖師の語録を信じている」と 他宗派から批判されてきたわけです 日蓮は、釈迦の教説を否定し 「悟った」などと語る禅宗に対して「禅天魔」と破折しています 禅宗では 【 不立文字は、誤解を受けやすいが 本来、「悟りの真髄は、言葉や文字に表すことができない」 「言葉や文字はモノを区別するものであるから それにとらわれずいのちそのものをみよ」ということである 】 なんて言っていますが 結局、自分や自分の心を含めた森羅万象全てが 本来、真如法性という宇宙の仏、宇宙の仏性 宇宙の根本原理、宇宙の究極的法則の波がしらにすぎない という一元論を 自己も心(仏性)を通して悟りなさい ということであり 以上のように、言葉や文字に簡単に表すことができます(笑) なお、禅の特徴に「無」がありますが これは、分別をなくす=一元論を悟る ➝ 自と他との境界がなくなる=自分は無である ということです 釈迦の無我説は、のちに「我は存在しない」と曲解されますが 「変わらない我はない=我に実体が無い」ということです つまり「空」のことです すなわち、釈迦の縁起説=空 なのに対し 禅の隨縁真如説=無 ということで、全くの別モノなのです ● 一字不説と冷暖自知 それから「教外別伝・不立文字」の教説は 「一字不説」(いちじふせつ)という法門をもとに立てられたとされます 一字不説とは、釈迦は悟りを開いてから入滅するまでに 一字も真実の法を説かなかった 釈迦一代の教説は方便にすぎないというものです 「一字不説」は、いくつかの経典にみられますが 楞伽経(りょうがきょう)が有名で 楞伽経には「我れ何等(なんら)の夜に大菩提を得 何等の夜に般涅槃(はつねはん)に入り、此の二の中間に 一字をも説かず、亦(ま)た己説、当説、現説せず」 とあります そこで、禅宗では「四十九年、一字不説」 (釈迦は悟りを得てから没するまでの49年間 一字も真実の教えを説かなかった) といいます そして、教外別伝・不立文字が説かれたのは 実践・体験を重視するところからであると主張し 仏の教え(経典)を頭で理論的に理解することを 「学解」(がくげ)といって批難してきました 但し、ときに、禅教一致 行解相応(ぎょうげそうおう・相応は互いに通じ合っていること 互いが依りどころになっていること)といった 実践修行(禅)と学解の一体不離も主張されたといいます こうした禅の体験を重視する言葉として 「冷暖自知」(れいだんじち)があります 直訳すると"水を飲めば冷たいとか暖かいとかわかる" という意味です 「冷暖自知」は ≪悟りはその人だけに知れるもの≫だとか ≪悟りは他人にはうかがい知れないもの≫だとか ≪悟りは自分自身で悟る以外にない≫ といった意味に使われているようです 釈迦の悟りと道元の悟り 「縁起説」と「真如隨縁説」 ② (ひとつ戻る) |
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