緋山酔恭の「価値論」真理とはなに? 禅宗の「悟り」について



価 値 論


q第四章

真理とはなに?


 




【 釈迦と禅と天台 編 】




禅宗の「悟り」について



禅宗によると

ある時、釈迦が一枝の花房を手にとって弟子たちに示したところ

迦葉(かしょう)だけがその意味を理解して破顔微笑したとされます


【 迦葉… サンスクリット名 マハーカッサパ

舎利弗(しゃりほつ)、目連に次ぐ釈迦の高弟

舎利弗と目連は釈迦より前に没し、釈迦没後の教団指導者となった 】


これを「拈華微笑」(ねんげみしょう)といいます



禅宗ではこの迦葉を初祖として

真実の教えが≪以心伝心≫(いしんでんしん)により

代々伝えられ、28祖の達磨(だるま・禅宗の祖)に至ったと

主張しているのです



【 達磨(?~530?)… 菩提達摩。サンスクリット名 ボーディダルマ

生涯については伝説的なところが多いが

南インドの香至国の第3王子で

中国に入り、少林寺で壁に向かって

9年間坐禅し〔面壁九年(めんぺきくねん)という〕、悟りを得たとされる 】




なお「拈華微笑」の話は「大梵天王問仏決疑経」

(だいぼんてんのうとうぶつけつぎきょう・2巻。訳者不明)

にありますが

この経典は、唐代の経録(全ての翻訳経典の目録)である

開元録(730)や貞元録(800)に見られないことから

それ以後、中国でつくられた経典であると考えられています




こうした「拈華微笑」を歴史的な根拠とし


≪釈迦の本意は、釈迦の言葉(すなわち経典)によって

伝えられてきたのではなく (仏祖不伝)

経典とは別に以心伝心により、代々受け継がれてきた


言葉では真実の教えを表現することができないし

言葉は真実そのものでもない

経文は役に立たないので用いない≫と


「教外別伝・不立文字」(きょうげべつでん・ふりゅうもんじ)

を主張するのが、本来の禅宗です



つまり、釈迦の言葉(教説)を否定するところに特徴があるわけです




そして、教外別伝・不立文字を根拠に

実践(坐禅)による

「直指人心・見性成仏(顕性成仏・見性得達)」

〔自分の心が本来、仏性そのものである

それを見極め、悟りに至ること〕を主張するのが、禅なのです




自分の心が本来、仏であることを

「坐禅によって悟れ」といっても

その前に「仏」ってなんですか? ということになります



また、それを明示しないで

「私は悟った!」と言ったところで


それこそ、自己の『心』を基準とした

客観性に欠けるものになりませんか?

という話になりますが(笑) そこは置いておきます





禅宗では「教外別伝・不立文字」を立てていますが


現実には、達磨自身が、楞伽経(りょうがきょう)を注釈した

楞伽経疏(りょうがきょうしょ・5巻)を著し

これを依りどころとせよとしています



また、日本の臨済宗(臨済禅)では、楞伽経の他にも

首楞厳経(しゅりょうごんきょう)

円覚経、金剛般若経をたよりにしてきたようで


現在では、大般若経、金剛般若経

般若心経などが読誦されているといいます




一方、曹洞宗(曹洞禅)でも

道元(1200~53。日本曹洞宗の祖)が

「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)を著しています



また、般若心経、観音経〔法華経の第25品の

観世音菩薩普門品(ふもんぼん)を独立させたもの〕


大悲呪〔だいひじゅ・千手観音大悲心陀羅尼

大悲無礙(むげ)神呪、悲神呪などともいう

大悲心陀羅尼経にみられる千手観音が説いた

陀羅尼(だらに・梵語の呪文)で、無量の功徳があるという

檀家の仏事にもよく唱えられている〕

なんかが読誦されているらしいです




【 正法眼蔵… 禅の真髄を漢字仮名交じり文で書いたもの

道元は一説によると100巻本を目指したとされるが

87巻(新草と呼ばれる12巻本と

それ以前に編集された旧草と呼ばれる75巻本)

を編集したところで没した

12巻本と75巻本は重複しないのであわせて用いる 】




それから禅宗では

語録〔高僧の行履(あんり・日常の言動)、弟子に行った説法

他の禅僧と交わした問答などを口語のまま記録、編集したもの〕

が盛んにつくられ、読まれています



こうしたことから

「禅宗は文字を立てないと言いながら

言っていることとやってることが違う。自語相違である」とか

「釈尊の経文は信じないのに、祖師の語録を信じている」と

他宗派から批判されてきたわけです



日蓮は、釈迦の教説を否定し

「悟った」などと語る禅宗に対して「禅天魔」と破折しています





禅宗では

【 不立文字は、誤解を受けやすいが

本来、「悟りの真髄は、言葉や文字に表すことができない」

「言葉や文字はモノを区別するものであるから

それにとらわれずいのちそのものをみよ」ということである 】 

なんて言っていますが


結局、自分や自分の心を含めた森羅万象全てが

本来、真如法性という宇宙の仏、宇宙の仏性

宇宙の根本原理、宇宙の究極的法則の波がしらにすぎない

という一元論を

自己も心(仏性)を通して悟りなさい ということであり


以上のように、言葉や文字に簡単に表すことができます(笑)





なお、禅の特徴に「無」がありますが

これは、分別をなくす=一元論を悟る ➝

自と他との境界がなくなる=自分は無である ということです



釈迦の無我説は、のちに「我は存在しない」と曲解されますが

「変わらない我はない=我に実体が無い」ということです

つまり「空」のことです



すなわち、釈迦の縁起説=空 なのに対し

禅の隨縁真如説=無 ということで、全くの別モノなのです






●  一字不説と冷暖自知



それから「教外別伝・不立文字」の教説は

「一字不説」(いちじふせつ)という法門をもとに立てられたとされます


一字不説とは、釈迦は悟りを開いてから入滅するまでに

一字も真実の法を説かなかった


釈迦一代の教説は方便にすぎないというものです



「一字不説」は、いくつかの経典にみられますが

楞伽経(りょうがきょう)が有名で


楞伽経には「我れ何等(なんら)の夜に大菩提を得

何等の夜に般涅槃(はつねはん)に入り、此の二の中間に

一字をも説かず、亦(ま)た己説、当説、現説せず」

とあります



そこで、禅宗では「四十九年、一字不説」

(釈迦は悟りを得てから没するまでの49年間

一字も真実の教えを説かなかった) といいます



そして、教外別伝・不立文字が説かれたのは

実践・体験を重視するところからであると主張し

仏の教え(経典)を頭で理論的に理解することを

「学解」(がくげ)といって批難してきました



但し、ときに、禅教一致

行解相応(ぎょうげそうおう・相応は互いに通じ合っていること

互いが依りどころになっていること)といった

実践修行(禅)と学解の一体不離も主張されたといいます





こうした禅の体験を重視する言葉として

「冷暖自知」(れいだんじち)があります


直訳すると"水を飲めば冷たいとか暖かいとかわかる"

という意味です



「冷暖自知」は

≪悟りはその人だけに知れるもの≫だとか

≪悟りは他人にはうかがい知れないもの≫だとか

≪悟りは自分自身で悟る以外にない≫

といった意味に使われているようです




釈迦の悟りと道元の悟り




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