【 悟りとはなに? 編 】 ( 価値論 根幹部b ) ≪悟り≫とはなに? ≪釈迦は、悟りを得て、ブッタ(仏)になった≫ といいますが、そもそも「悟り」とはなんでしょう? 酔恭 以前、御年100歳の禅宗のえらいお坊さんが テレビでこんなことを言っていたよ ≪悟りとは死を恐れないことではありません 毎日、毎日、ほうきで庭や門前を掃き清めるように 毎日、毎日、決まったことをとどこおりなく繰り返すこと その中で、いつも「平気」で生きていられることなのです≫ 竜太 禅に「日々是好日」(ひびこれこうじつ) という有名な教えがあるけど そのことのようだね 酔恭 日々是好日 確かに、人間が不安や苦悩やジレンマを感じるときって 病気の場合は別にして、個人のことにしても グループ内のことにしても 毎日しなきゃいけないことをやってないときだ 毎日している授業の復習が、今日はできなかったとか いつもできるはずの仕事が残っちゃったとか… そう考えると、毎日、決まりきったことを繰り返す中に 「満足」や「充実」という感覚が生まれている ということはある 禅の立場からすると「充実」という感覚も 悟りとしてはダメなのかもしれないけど(笑) 「充実」がダメなら 毎日「平気」という感覚で生きられると言い換えておこう 竜太 人間が行動する理由、行動の原理は ≪痛みをさけ、快楽を得ること≫というけど 毎日、とどこおりなく決められたことを 決められたとおりにやることで 「やり切った感」みたいな ある種の充実感、快楽が、保障されるというのは確かにある ただ、それが悟りなのかな? むしろ、そうした快楽に浸ってなすべきことを なおざりにして取り返しのつかない状態に陥ることも多いよね 例えば、商店街のお店だったら 毎日、同じことを、ただまじめにやって 事足れりとしていたら 人の価値観の変化について行けなかったり ショッピングモールなんかができて 人の流れが変わった時に対応できずに 倒産してしまうでしょ 酔恭 なるほど それが「悟り」なのか? という話になると、別の視点からも 吟味する必要がある 例えば 毎日、毎日、庭や門前を掃き清めることで 竹ぼうきにひっかけられて 殺されちゃうみみずや虫もいるはずだ みみずや虫だって 過去をたどれば、我々と同じ祖先に行き着く(笑) 毎日、門前や庭を掃き清めるのが≪正解≫なのか 「私は殺生はしません」と言って 自然状態のままのボロ寺にしておくのが ≪正解≫なのかということになる 以上は極端な話だけと 相手に恨まれようと、競合相手を潰していき 資産家となって 貧しい国の子供たちを救済していく人が立派なのか それとも、清らかな気持ちで生きる 禅僧のような人が立派なのか そんなの答えがないよね 酔恭 そう考えると どう生きるかに≪正解≫なんてないんだよ 「執着しないで仏のように生きるのが正しい」 と決めつけて生きるのも 「これは自分にとって必要なモノだ」 と趣味のコレクションに没頭するのも その人の救済原理〔自分を成り立たせている根源的な論理〕 であるという意味において どれも一緒で「正解」ということだ 竜太 なるほど・・・ 酔恭 ただ、ここまでは あくまで「価値」の次元の話であり、もっと深い意味もあるよ 竜太 そこで≪悟り≫って なんなんだってことになるわけだね 酔恭 ≪悟り≫って何かと言えば 真理=間違えのないこと=正解 を知ることだよ つまり、悟りというのは ≪正解を知ること≫ ≪正解≫ということだ 竜太が車で走っていて 道にカエルと人間が同時に飛び出してきたら どっちをさける? どちらかをひかなくてはならないとしたら どっちをさける? 竜太 当然、人間の方をさけるよ 酔恭 なぜそうするかというと それが人間の社会での≪正解≫だからだよ だけど「オオカミ少年ケン」は 人間じゃなくてオオカミを助ける これは、ケンがオオカミの社会にいたからだ つまり「カエルの命よりも人間の命の方が重い」 というのは 我々が人間の社会にいるからでしかない 宇宙的な視点からの答えではない 人間の≪正解≫でしかないんだよ 狼少年ケンは、1963年から65年に NETテレビ(現:テレビ朝日)で 放送されていたテレビアニメ(モノクロ)です 竜太 すると≪原型の矛盾≫は ≪正解≫が この地球上のすべての意識あるものの 中立的な立場から導き出された 「真理」ではないというところにあるということだね 酔恭 仮に、唯一 悟り=真理=正解 を求める道があるとしたら 人間が地位を下げて あらゆる他の動植物、意識あるものと同じにならなければならない だけど、そんなことできないよね それができないから 人間の世界に≪矛盾≫や≪ジレンマ≫がある 酔恭 さらに「究極の正解」「究極の真理」なんて話になれば 宇宙の法則、全て理解しなければ 語っちゃいけないはずだ ところが、人間は五感で認識できるモノやコトしか利用できない 電気も「雷」や「静電気」を我々の五感でとらえることができたから 利用できたわけで 五感で認識できないモノやコトは存在としてあっても 人間にとって存在しないのと等しい なので科学で分っている宇宙の法則など ほんのわずかだと言われている つまり、「悟りを得た」とは、「正解を悟った」 「正解を得た」ということであり 悟りとは「正解」のことであり「真理」のことです しかし、人間に「正解」なんて決められません なので、どのような「法」を収めても「正解」にならないのです 間違えのない(=真理)の生き方にならないということです これまで先達や先哲 人生の達人により語られてきた「悟り」「真理」とは どういう生きざまで生きて、死んでいくのか・・・ という意味においての「真理」です 要するに、自分自身の生き方の正解を見出した 自分の人生の価値を見出し、意味づけをした ということであり これは≪自分自身の正解≫ であり 本来は、≪自分にとっての必要性≫ = 「価値」 なのです 「哲学には答えがない」と言われますが そうではありません 哲学も、物理学も、数学も 人間の理解において 世界に答えを出したものにすぎない ということなのです 重要なことは 私(緋山)は 「真理や価値は人によって違う」という ≪相対主義≫を言っているのではないということです そもそも≪正解=真理=悟り≫を出せない と言っているのです 正解がないのではなく、正解を出せない 決められないということなのです ≪真理の独立性を認めず 主観に関わらない客観的な真理は存在しない≫ とする立場を「主観主義」といいますが 「主観に関わらない真理は存在しない」のではなく 宇宙全ての法則が分からずに 一部だけで真実を語っても それは主観=価値 になってしまう ということです 人間の根源的な矛盾をいうと ホントは≪正解が出せない≫のに ≪人間の考えで出した答え(=正解)において、何かを語ろうとする≫ ということなのです なので、≪究極的に理解する≫とか ≪全て(真理)が解る≫とか ということは ≪自分が何も解らないことが解る≫ということなのです 平行線も直角三角形も存在しない 釈迦の真理は正しいか? (ひとつ戻る) |
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