緋山酔恭の「価値論」 価値とは? 真理とは? 普遍とは? イデアの正体 ①・②



価 値 論


q第三章

イデアの正体


 




プラトンのイデア論 ①



前450年頃の古代ギリシアでは

「相対主義」や「不可知論」が、流行していたといいます




相対主義の代表の プロタゴス(前490~前420頃)は

「人間は万物の尺度である」と説き

個人の主観的判断以外に真理はない と主張しています



ある人には、風は温かく感じられ

別の人には冷たく感じられる

「風そのものは、温かいのか冷たいのか」

という問いには答えがない と述べたといいます



彼は、真理の≪客観性≫と≪絶対性≫を

否定したということです



【 同じ行為をある国では聖戦(善)と呼び

別の国ではテロ(悪)と呼ぶ

だから絶対的真理などない

真理は主観の判断で決定される 】といったような話ですね





不可知主義の代表 ゴルキアス(前487~前376)は


① 「この世界はモノが存在しないとも言える」

〔なぜならモノは、人間の知覚なしには存在しないから〕


② 「何か存在するとしても、それについて知ることはできない」

〔モノの存在と、それに対する人間の思考は一致しない〕


③ 「何か知りうることができても

それについての知識を他人と理解し合うことはできない」

〔知りえたことを言葉で正確に表すことはできないので

他人に事実を伝えることは不可能である〕 と述べたとされます




ゴルキアスの考えだと

この世界について、何も知ることも語ることもできない

ことになりますが

彼自身が色々と語っているところに矛盾があります



こうした不可知論は「詭弁論」とも呼ばれています







古代ギリシアの哲学者 プラトン(前427~前347)は

こうした相対主義や、詭弁論的な不可知主義に対し


【 たしかに、時代や社会が変われば

「善」とされるものも変わっていく


しかし、どのように社会が変わっても

「善」の本質は変わらない


「善」という言葉がもつイメージする内容

つまり概念は、相対ではなく、絶対不変のものなはずである】


と考えたとされます



そこでプラトンは

「なぜかみんなが共通に理解している何か」を

≪イデア≫と名付けたといいます



このイデアは「普遍者」と訳され、肉体の感覚器官ではなく

魂でとらえた存在の真実だとされています




りんごというイデアがあって

それによってりんごがつくられている


また、りんごが赤いのは、赤いというイデアがあって

それによってりんごが赤いのである というわけです



そして個々の事物は

超自然的なイデア界にあるイデアによって作られるとしました



これがプラトン哲学の根本である「イデア論」です




また、ある行為は、ある視点からみて美しかったり

正しかったりしますが、別の視点からみれば逆のことも多いですよね



これに対して、美のイデアはつねに美しく、正のイデアはつねに正しい



個物は、美のイデアにあずかることで美しかったり(分有説)


美のイデアを模範とし

これに似せることで美の性格を得ることができる(模型説)


というのが、イデア論です





さらにイデアにも上位から下位のものまであり


最高が「善」のイデアで

下位のイデアは善にむかって統一されるといいます



【 魂は肉体という牢獄に閉じこめられていて

イデアを見る力を失っている


魂が自由になったとき、善のイデアの本質が理解できる


哲学者の使命は

現実世界をイデア界(理想世界)に近づけることである 】


などと論じていたようです






なお、プラトンは、真理認識に至る過程を

「エピクレーシス」(想起)と呼んでいます


これは、人間の魂は、肉体に宿る前に

イデアを天界で眺めていたということを前提に


イデアを、想起することによって、真理を認識できる

という論理です







プラトンのイデア論 ②



では、プラトンの考えた

人類が目標として掲げられるような「善」

そこに人類が向けて進歩し続けることができるような「善」

とはなんでしょう?



じつはそのような

≪絶対的な価値としての善≫

≪真理としての善≫を定義したのが「宗教」なのです




イスラム教は、宗教共同体(ウンマ)を拡大し

世界を1つのイスラム帝国にするという理念で出発した宗教です


世界を1つのイスラム帝国にするというのが

イスラム教徒にとっての「善」であり「世界平和」であり

「人類愛」であるということです



神の使者であるムハンマドの代理者であり

ウンマ(全イスラム教徒の宗教共同体)の宗教的指導者でもあり

イスラム帝国の政治的指導者でもあったのが「カリフ」です 


〔カリフは、のちにイスラム帝国は分裂し

複数のカリフが並び立つ時代となり、実質的に消滅する〕





一般の人は宗教に無知なので

「イエスも釈迦もムハンマドも

人を殺してはいけないと教えていたはずだ

人類の平和を願っていたはずだ

後に弟子たちによって、宗派間の争いが起り

殺し合いまでするようになった」などと勝手なことを言っています


ところが事実はそうではありません


ムハンマド自身が3度の戦争をしているし

ユダヤ教の部族を虐殺もしています




それに、イスラム法(シャリーア)では

世界はイスラム法の支配する

ダール・アル=イスラーム(イスラムの家)と

異教徒の法の支配するダール・アル=ハルブル(戦いの家)に分かれ

ジハード(聖戦)の目的は、後者の征服にあるとされています





イスラム教では、ムハンマドの時代を「預言者の時代」といい

ムハンマド以後、4代のカリフの時代を「正統カリフ時代」といいます


「正統カリフ時代」は、イスラムの理念が

政治に反映された理想的な時代だったとされます


これ以後、ウンマ(イスラム共同体=イスラム帝国)が分裂し

カリフが並び立つ時代となるわけです


この「正統カリフ時代」は、632~661年です




イスラム教徒にとって、彼らが共有している

「善」 「愛」 「平和」などといった理念は

唯一絶対の神という≪絶対原理≫に支えられている

【絶対的な真理】【絶対的な価値】であるはずです



にもかかわらず、その理念を

地上に具現化するための共同体は、30年ともたないのです




これは、≪絶対主義≫における

「善」 「愛」 「平和」などといった理念

さらに「神」 「宇宙の原理」などといった究極的な存在が


【絶対的な真理】【絶対的な価値】などでなく

自分たちの都合=(変動的な)価値 でしかないことを

如実(ありのまま)に示しています




キリスト教における「隣人愛」 「博愛」も一緒です

そのなによりの証拠が≪魔女狩り≫です





普遍的な価値は存在しますし、創造もされます


命、水、空気、お金

澄み切った青空、美しい風景、愛、平和・・・・

こういったモノやコトは、普遍的な価値とは言えます



これに対し、絶対的な価値は存在し得ないはずです


病気の苦しみから逃れたいと願い

死を選ぶ人にとっては、命すら、価値ではないからです




普遍的な価値は、創造もされると書きましたが


例えば、1950年代(昭和25~)は

白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」と呼ばれ


1960年代(昭和35~)には、カラーテレビ、クーラー、カー(車)が

「新三種の神器」と呼ばれました



つまり日本人の誰もが、これらを手にすることが

≪幸福≫であると信じて、懸命に働いていた時代があったのです


これらは、当時の人にとっては

普遍的な価値をもっていたということです



ではなぜ、絶対的な価値は存在しないのでしょうか?


それは、価値が、自己の置かれている状況や状態により

変動的であるからです




プラトンのイデア論 ③ ④




Top page


絶対主義・相対主義の間違え (ひとつ戻る)






 自己紹介
運営者情報




 時間論




 幸福論




 心と
存在




言葉と
世界




食べて
食べられ
ガラガラ
ポン





Suiseki
山水石美術館




 B級哲学
仙境録