【 絶対・相対 編 】 不可知論 不可知(ふかち)論とは ≪事物の本質は認識することができない≫とし 経験を超えた問題として扱うことを拒否する立場です 哲学の用語であり、懐疑論・現象学・ 実証主義などの様々な立場からの不可知論があります 現象学とは ≪ 客観世界が実在するかどうかは確かめようがない なぜなら、目の前の知覚された世界も 記憶や想像によって現われた世界も 全ては意識の中に現われた世界としか言えないからだ ≫ という立場であり 実証主義とは、経験主義に近く 感覚的経験によって認識できない 「神」や「イデア」のような形而上学的な存在を認めない立場です カント(1724~1804・ ドイツの認識論と道徳論の哲学者)の 「物自体」(ものじたい)も一種の不可知論です カントは、世界を、経験可能な「現象」(モノやコト)と 経験不可能な「物自体」(ものじたい)に区別し 「物自体は知ることはできないが、現象を可能にするものとして 物自体が存在しなければならない」としています 「物自体」とは、経験の背後にあり、経験を成立させるために 必要な条件や存在ということです 知覚したり、認識したりすることができない存在ですが 認識されるモノやコトの背後にあり 物自体がないと、モノやコトを認識したり、経験したりできないのです また、政治的に無神論者と言うのがはばかられる場合に 不可知論者を表明することもあるようです 「不可知論」という語自体は、 トマス・ヘンリー・ハクスリー(1825~1895) というイギリスの生物学者が 自らの信仰を表現するためにつくったのが始まりです ちなみに彼は、ダーウィンの支持者で 「ダーウィンの番犬」と呼ばれた人です 人前で議論することを好まなかったダーウィンに代わって 好戦的なハクスリーが論争の前線に立ったといいます 釈迦の時代の思想家では サンジャヤ・ベーラッティプッタが 「そうだとは考えない そうでないとも考えない。そうでないのではないとも考えない」 と説く懐疑論者であったとされ 彼の懐疑論(詭弁論)は つかみどころがないことから"うなぎ論"と呼ばれます 釈迦第一の弟子で「智慧第一」と称された 舎利弗(しゃりほつ・シャーリプトラ) 第二の弟子で「神通第一」と言われた 目連(モッガリーナ)は ともに彼の弟子だったのですが 2人は同門の250人を引き連れて釈迦に帰依しています 釈迦の「無記」も不可知論の一種です 無記とは、説明しない 回答がない という意味であり 釈迦は以下の4種10項目の問いに対し 無記すなわち無回答の立場をとっています ① 世界は時間的に常住(永遠)か無常かの2項目 ② 世界は空間的に有限か無限かの2項目 ③ 霊魂と身体は一つであるか別なのかの2項目 ④ 人間(仏とも)は死後、存在するかしないか 存在しかつ非存在であるのか 存在せず非存在でもないのかの4項目 ただ釈迦の場合、単なる不可知論者ではなく 超感覚的なものに対しても哲学的な答えをちゃんともっていて 例えば、釈迦は、バラモン教の アートマン(固定的・普遍的な自己の本質。霊魂)に 無記の立場をとっただけでなく 生命とは五陰仮和合(ごおんけわごう)であると説き アートマンの存在を間接的に否定しています ● 五陰 生命を構成する五つの要素で 色は生命の物質的側面。他は精神作用で 受〔眼、耳、鼻、舌、身、意(心のこと)の六根を通し 外界を受け入れる作用〕 想〔受で受け入れたものを知覚し、想いうかべる作用〕 行〔想にもとづき何かを行おうとする衝動的欲求〕 識〔受から行までを統括する精神の根本〕 仏教では全てを「空」(変化してやまない 一瞬一瞬変化している)とみることから 生命を、五陰が仮に和合したものと定義する また、一神教では、宇宙は、唯一絶対の神によって創造され 「全ては神の意志による」としますが これに対して釈迦は 全ては、因(結果を生じさせる直接的な因。原因)と 縁(因を助けて果を生じさせる間接的な因。助因) によって生起する すなわち全ては他との関係性によって生起する という「縁起説」を立て否定しています また、中世のローマ・カトリック教会は グノーシス主義に対して 神の存在は 人間の理性にもともと備わる「自然の光」によって知ることができるが 神の本質そのものは知ることができないという 不可知論を説いたといいます スコラ哲学においては 超自然的な存在としての 神を認識する能力である「恩寵の光」と 人間が生得的(生まれながら)にもつ 「自然の光」という考えが普及したといいます 「自然の光」とは 自然界の事物を認識する理性に具わる能力だといいます 〔 スコラ哲学とは、中世に、ヨーロッパの教会・修道院に付嘱する 学校、大学の神学部で、行われた神学的な哲学 〕 スコラ哲学最大の哲学者 トマス・アクィナス(1225頃~74・イタリアの神学者 ドミニコ会の修道士)は、およそ以下のように言っています 【 理性による「自然の光」でも、神の存在を認識できる だが、有限である人間は、無限である神の本質は認識できない しかし、信仰と愛と希望によって、神から「恩寵の光」を与えられ それによって、知性が成長し、神をの本質を おぼろげなから認識することができるようになる さらに、キリスト者は、死して「栄光の光」を与えられることで 神の本質を完全に認識でき、幸福を得ることができる 】 日本人の中には「神は心の中に存在する」 なんて考えている人も多いですが そうした考えは一神教の世界では受け入れられません キリスト教にもかつて 神が自己に内在するといった思想がありました 釈迦当時のバラモン教では 自己の本質であるアートマン(我・霊魂)が 宇宙の最高原理であるブラフマン(梵)と 本来 同一であると悟り これにより梵と我が合一 (梵我一如)すれば 輪廻転生を超越できる=解脱できるという考えが 主流となっていたようですが このような考えが キリスト教にも混入したことがあったのです それが「グノーシス主義」です 人間の本来的自己は、肉体、国家、さらには 宇宙、とくに人間の運命を支配すると考えられてきた「星辰」 (せいしん・太陽、月を含めた星々)によって害されているとし 本来的自己が、宇宙を超越する神と本質的に同一であると 認識することにより、神の内に入るという思想です 人間は本来、神の内にあるとし それが何らかの原因で地上に堕ちて肉体の中に閉じ込められた これは人間本来の姿ではない 本来的自己が「神と同一である」という叡智(グノーシス) を獲得すれば、肉体を脱して神のもとへ帰れるという思想です この思想は、キリスト教誕生と同時期の紀元前後に ローマ帝国の圧政下にあった属州のパレスチナ、シリア エジプト、ペルシア、小アジア (トルコ)において登場し 世界最古の一神教であるゾロアスター教、ユダヤ教 キリスト教などに寄生し 2~4世紀には、ローマ帝国ほぼ全域に普及したといいます その後、キリスト教の攻撃により次第に消滅していったとされています グノーシス主義のおもしろいのは 古代ローマでは、星辰を神格化し 星辰をその運動の規則性から秩序や倫理の象徴と考えてきたのに対し 星辰、宇宙をも悪魔的存在とみなしているところです 霊魂を善、肉体および物質的存在を悪とする霊肉(れいじく)二元論は 多くの宗教にみられますが 本来的自己と、星辰を含めた宇宙の全てとが対立する 反宇宙的二元論というのは珍しいです キリスト教との対立点は 星辰を含めた宇宙の全てを悪とする立場は 唯一絶対神の創造した世界の否定となる点 人間の魂が神の創造物ではなく神と同質とする点 人間が神と同質ならば、人間は本来的には救済されていることになり キリストによる救いは無用のものになりかねない点 人間の肉体を悪とし、キリストの肉体的要素は仮象であるという 「ドケティズ」 〔キリストを霊的な存在とみなし キリストは真に肉体の姿をとったのではなく 死の苦しみを受けたのでもない キリストの受肉(誕生)と十字架による死は見かけの現象であるという考え〕 の立場をとる点。すなわちキリストの人性を否定する点 であるとされています 絶対主義・相対主義の間違え 「真理は相対」の間違え (ひとつ戻る) |
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